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文学とMyInterestに関するbeth321のブックマーク (7)

  • 「作者の気持ち」は作品の評価に必要か - 指揮者だって人間だ

    2013-12-28 「作者の気持ち」は作品の評価に必要か 考え方 映画の解釈の議論の中で「それは違う、作者はこう発言しているのだからそれは◯◯のメタファーだ」などと主張をする人がいます。 「作者はこう思っていたんだ」という情報はその作品の評価に果たして必要なのでしょうか。 作品は作品単体で評価されるべきだと、私は思うのです。 「作者の気持ち」は無視すべきです。 ねこのきもちカレンダー2014 ([カレンダー]) 出版社/メーカー: ベネッセコーポレーション 発売日: 2013/09/14 メディア: カレンダー この商品を含むブログを見る ラヴェルの有名な作品に「ボレロ」という舞曲があります。 この曲は単一の主題をずっと同じテンポで12分間繰り返し続けます。 シンプルなメロディーと構成でありながら音色の博覧会のようにオーケストレーションが鮮やかに変わっていくことでも有名で、ミニマルの

    「作者の気持ち」は作品の評価に必要か - 指揮者だって人間だ
  • 村上春樹的桃太郎

    昔、とは言ってもだいぶ昔のことなのだけれど、僕はある町(名前もない小さい町だ)にと二人で暮らしていた。 多くの夫婦がそうであるように、僕たちの間にもいささかの問題があった。 他人からしてみれば些細な問題かもしれないのだけれど、はよくそのことで自分自身を責め、彼女が来持つ良さを損なっていたと思う。それは2月に突然降る冷たい雨のように僕たちを苦しめた。 「あなたはどう思うの?私たちに子供がいないことについて」とが言った。そのとき僕たちはボンゴレ・ビアンコといんげんのサラダをべ終え向かい合って座っていた。テーブル越しのはなんだかいつもより疲れているように見えた。 「ねぇ、最初に言っておきたいんだけど」と僕は言った。 「僕は特に子供が好きじゃない。それに子供がいないことは夫婦の自由な選択の結果であって、君が苦しむべき問題じゃないと思う」 は頬杖をついて僕の方をじっと見つめ、(あるいは

    村上春樹的桃太郎
  • 村上春樹を社会人になって読み返しているとむしろ現実であった

    1Q84を読んでみた。 久しく読んでなかったけど、この人の小説を読むとやっぱ、すこし方向性をもらえるような気がする。 よく、村上春樹は想像の世界に耽溺している現実知らずの青二才だというような良い方をされる。私も思っていた。 しかし5年ぶりぐらいに、多少なり、人生の経験を積んで、小説を読んでみると、 むしろ彼の書いている文章は現実を的確にとらえ、 一貫して、淡々たる努力が生んだ美しい経験や成果への賛歌をうたい、 汚いサボった人間の発する怠惰への嫌悪が綴られているような気がした。 社会人になり、余裕がなくなって、あるいは、もはや発見のない世界だと思って、村上春樹の小説を読まなくなっていた。 だが、久々に読んでみて、 遠くにある、変わらない立ち位置として、美しいものを肯定的にとらえ、 雑踏の中に紛れ込んだ不努力や勇気の欠如を批判する村上春樹の姿勢は、 疲れていた私の心を引き上げ、自分を助けてくれ

    村上春樹を社会人になって読み返しているとむしろ現実であった
  • 綿矢りさって天才ってより早熟型の作家だったね。

    良かったのは『インストール』とか『蹴りたい背中』まで。後の作品はなんとも微妙。ティーンネイジャー独特の感性、ところどころに散りばめられた詩的文章。初めて読んだ時は「こりゃすごい」って思った。けど、今じゃ彼女は30ぐらいでしょ。ラノベ作家みたいな文章でいつまでっていく気なんだろう。早稲田卒だけど、大して頭も良くなさそうだから、純文学も無理だろうな。歳月は残酷なもんだツイートする

  • 「噴飯物」を青空文庫から用例をいくつか引いてみた。

    そうだよなあと思って青空文庫から用例をいくつか引いてみた。 芥川龍之介「の事」(大正10年) 英吉利の古代演劇史を知るものには、これも噴飯に堪へないかも知れない。 芥川龍之介「梅花に対する感情」(大正13年) 予は常に確信す、大正の流俗、芸術を知らず、無邪気なる彼等の常談を大真面目に随喜し渇仰するの時、まづ噴飯に堪へざるものは彼等両人に外ならざるを。 坂口安吾「意識と時間との関係」(昭和2年) そのためには噴飯の資になることも快く甘じて受けたく思ひます。 坂口安吾「ピエロ伝道者」(昭和6年) 竹竿を振り廻す男よ、君の噴飯すべき行動の中に、泪や感慨の裏打ちを暗示してはならない。 北大路魯山人「料理の秘訣」(昭和8年) みな出鱈目だ。昆布だしの取り方はもちろん、煮だしの取り方を知らない。だから、用いる分量なども当てずっ法だ。これで料理経済を語るなどは噴飯ものである。 太宰治「駈込み訴え」(昭

    「噴飯物」を青空文庫から用例をいくつか引いてみた。
  • 童貞を守り抜く決心をした

    傍らにPCを置いて洗面所の床にバスタオルを敷き、上半身裸になってからローションを取りに部屋へ戻る。 ローションを持って洗面所までやってきて、今度はコンドームを忘れたことを思い出す。 「いけねっ」と思わず声が出るほど狼狽し、駆け足でもう一度部屋へ引き返して、ようやく戻ってきた洗面所で息を切らしながらコンドームの袋を開ける。 深呼吸してバスタオルに横たわった俺は、少し力の入った指先でPCのブラウザを開き、目をきょろきょろさせながら今日のオカズを探す。 無意識だが頬はわずかに緩んでいる。 今日は何にしようかなぁ。 この前はあの動画で抜いたし、その前はこの画像で抜いた。 じゃあ今日は久しぶりに○○ちゃんで抜くか、と決めて、若い女の子のビキニ写真をPCの画面一杯に拡大させる。 ふぅ、と一息ついた俺は、落ち着いた様子でローションを手に取り、よく馴染ませた後、画像を見ながら想像力を膨らませる。それと同時

    童貞を守り抜く決心をした
  • 信仰が無いことにいまさら苦しむ

    ここ最近、キリスト教に関連のある文学に触れている。『失楽園』や『レ・ミゼラブル』など。これらの作品に触れて感じるのは、信仰を持つ者の圧倒的な情熱と、他者と関わり合おうとする想いの誠実さだ。そして、日の世俗のなかにいて確たる信仰を持たないまま生きてきた自分には無いものである。私には居場所が無い。交友関係ならなんとなく時々会う友人はいるし、親族との交流もあるし、学生なので研究室の中でゼミ生と交流がある。(恋人はいないが)。しかしなぜか、真に安心して心を許せる場所にならない。常に自分の心を打ち明けられないことに苦しむ。心とは、私はあなたがたに関心を持たない。あなたがたも当のところは私に関心を持っていないだろう。単に生きていくための利害でこうして過ごしているだけなのだということ、それで生きられるなら誰とも合わずに放っておいてほしいということだ。当然だれしもひとりでは生きることはできない。私

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