織田信長(おだのぶなが)の父・信秀(のぶひで)が、尾張(おわり)の国の南半分を領有(りょうゆう)する主君の家来であったことを前回まとめました。その家来の中でも、特に「三奉行(ぶぎょう)」と呼(よ)ばれる内の一人でした。従(したが)って、信秀と同格(どうかく)の家臣が、他に2人いたことになります。信秀の家は、弾正忠(だんじょうのちゅう)家と呼ばれ、跡(あと)を継(つ)いだ人物は、必ず弾正忠を名乗っていたのです。信秀は、津島(つしま)や熱田という、商業都市を支配(しはい)することでお金を蓄(たくわ)え、天皇(てんのう)家や有力寺社に寄付(きふ)を重ね、名を売りました。軍事力にも秀(ひい)で、他の2人や主家をも圧倒(あっとう)し、尾張半国の実力者になったのです。今回は、その信秀の居城(きょじょう)移転(いてん)についてまとめてみます。 家督(かとく)を継いだ当初は、父・信定が築(きず)いた勝幡(