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ブックマーク / pikarrr.hatenadiary.org (56)

  • 「なぜお金はすべてなのか」Q&A その3 縦−横の贈与交換関係 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    戦争は共同体と共同体の間でおこる 「共同体と共同体の間」が極限の状態であるのは、商品交換が奇跡的な行為である以上に、「共同体と共同体の間」とは、力のある方が暴力的に略奪する、闘争が行われる領域であるからだ。原始社会から、共同体内は贈与交換によって成立してきた。それに対して、共同体と共同体の間は、極限的な領域として、闘争(戦争)は行われてきたのである。 大航海時代に行われた植民地での略奪とはまさにそのようなことである。欧州という共同体と部族的共同体が出会ったときに、力をもった欧州が暴力的に略奪する、あるいは暴力的に不当な交換をさせる、自らの共同体へと従属させたのである。これは現在の国家間や、文化圏間にも引き継がれているだろう。 絶対主義国家による国家と商人資の提携は、一方で、世界市場における商人交換のために競争しながら、他方で、世界中の資源(金・銀・その他)を略奪し、各地の部族的共同体を

    「なぜお金はすべてなのか」Q&A その3 縦−横の贈与交換関係 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
    castle
    castle 2007/10/12
    「戦争は共同体と共同体の間でおこる」「共同体間での闘争領域を納めるものとして「貢納制国家」が成立し再配分という交換様式が形成される」「「王」は「超越論的な想像的回復」による縦-横の贈与交換関係を継承」
  • なぜお金はすべてなのか 純粋贈与と、贈与と、交換(全体)  - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    1 純粋贈与と、贈与と、交換 2 貨幣への負債感 3 科学技術−国家(法)−貨幣 4 貨幣交換世界の正当性 5 神々の闘争 1 純粋贈与と、贈与と、交換 幸運と神 たとえば宝くじで10億円当たってしまうと、どのような気持ちになるのだろうか。それは飛び上がるほどのうれしさであるとともに、不安になるのではないだろうか。無償で大金を贈与されることの罪悪感がともなうだろう。 このために宗教への帰属とは関係なく、漠然と神に感謝するだろう。それはこの罪悪感(負債感)を解消するために必要な返礼する他者を想定する。神へ感謝することで返礼する。あるいは慈善団体へ一部寄付することもあるだろう。また知り合いに祝儀を振る舞うだろう。 これはつゆ払いであるとともに、負債感の解消行為である。このような散財による贈与は、神=超越的な他者への返礼であり、負債感の解消である。これは迷信のようなものであるだけでなく、経済的な

    なぜお金はすべてなのか 純粋贈与と、贈与と、交換(全体)  - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
    castle
    castle 2007/10/03
    「人はたえず純粋な贈与(略奪)に晒され」「貨幣交換は、負債感を生じにくく、貸し借りの感情が相殺されやすく、繋がりの強度を生みにくい」「等価交換という脆弱な行為を成立させるために国家権力が必要とされた」
  • なぜお金がすべてなのか(仮) その2 貨幣への負債感 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    現実の貨幣交換はどこまで純粋か 「交換において負債感は生じない。というよりも正確には、負債感の持続時間がゼロである。商品Aと商品Bを当の意味で等価交換したならば、双方には心理的な貸し借りの感情は、生じるとしても瞬時に、その場で相殺されるだろう。(中野)」というとき、現実の貨幣による等価交換はどこまで負債感の持続時間がゼロである純粋な交換でだろうか。 たとえばある電化製品を買った。しかしそれは期待したような特性を満たしていなかった。それは不良ということではなく、消費者が勝手に期待したものであり、製造メーカーにクレームを言うものではない。たとえば人はブランドへの信用で商品を買う場合にこのようなことが起こる。ソニーの製品だから期待して買ったのに・・・。 ここでは貨幣による等価交換が行われているが、負債感の持続時間がゼロである純粋な交換とはいえない。ブランドとは、信用という形で負債感を引き受ける

    なぜお金がすべてなのか(仮) その2 貨幣への負債感 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
    castle
    castle 2007/10/01
    「希少商品は希少であるから価値であるのではなく、「貨幣」に稀少であると認められることで価値を持つのであり、価値を認めなければ、どのような物語があっても、私的に思い入れがあっても価値を持たない」
  • なぜ「動物化」は現代を生き残るための戦略なのか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    「ソウゾウ性」と動物化 人が生きるためには、想像を創造することが必要だ。「ソウゾウ(創造、想像)性」とは未来への可能性であり、そこに向かおうとすることで生きる力が生まれる。しかし想像はどこまでも虚像である。それは虚像であるからこそ柔軟に創造される。そして虚像を創造するために現状をこえて錯覚することが必要である。 ソウゾウすることは、「命がけの飛躍」であり、現状から飛躍するにはリスクが生まれる。そしてリスク回避のために人は情報収集を行うだろう。情報が少ない時代には、そのような試みに対しても、解答が得られず、夢をみることを容易にした。そしてそこに貧しくても(貧しいからこそ)、ハングリー精神(生きる力)がうまれえた。 現代の情報過多の時代、夢をみることが難しくなっている。ソウゾウする前に、多くの情報が提供されてしまう。それは生きる上で失敗をさけ、リスク回避としては有用であるが、諦めとともに、足元

    なぜ「動物化」は現代を生き残るための戦略なのか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
    castle
    castle 2007/08/24
    「「ソウゾウ(創造、想像)性」とは未来への可能性であり、そこに向かおうとすることで生きる力が生まれる。しかし想像はどこまでも虚像」「現代の情報過多の時代、夢をみることが難しくなっている」
  • なぜネオリベラリズムを批判することは難しいのか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    近代というデジタル化 最近のネオリベラルや、動物化をめぐる議論は、アナログとデジタルの関係で語るとわかりやすいのではないだろうか。 アナログとはこの世界の連続性であり、決して反復されることがない。たとえば放り上げたボールの軌道を古典力学で計算できても、現象は空気や熱などの環境に左右され、あくまで近似的なものでしかない。では、そのような環境も含めて計算すればと思うが、原子単位のふるまいを観測することなど不可能である。物理学はどこまでも近似でしかない。このよな意味で、この世界(アナログ世界)は連続であり、決して反復されされないし、再現されることはない。 人はこのようなアナログ世界を単位で切り取り、その関係性を見いだし、近似的に記述してきた。それがデジタル化である。たとえば大量のリンゴがあり、品質管理するために大きさで分類するとする。長さが2cm単位で分けると、10cmも12cmも、10〜12c

    なぜネオリベラリズムを批判することは難しいのか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
    castle
    castle 2007/08/23
    「「方法序説」に記述されているのは、近代化というデジタル化(機械化)に目覚めた高揚感と、決してデジタル化されない精神を守ろうとする倫理観の二元論的な解離である。ここに近代の人間像の原型があるのでは」
  • 「動物化」とはなんだったのか? 「動物化」をめぐって その1 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    コジェーブ的動物化とデリダ的動物化 動物化を二つに分けて考えましょう。 コジェーブ的動物化 コジェーブはハイデガーの現存在を繋ぎつつ、ヘーゲルの人間/動物の形而上学的二項対立から人間を考えます。そしてコジェーブは消費文化に埋没するアメリカ人をみて、ヘーゲル的人間というよりも、動物のようだと考えます。だから「形而上学的動物化」です。ラカンがコジェーブを師と仰ぎ、フロイト+コジェーブ(ハイデガー、ヘーゲル)として、精神分析的人間を思考したのは有名です。 デリダ的動物化 デリダは、このようなヘーゲル的、ラカン的人間/動物を形而上学的二項対立と考えて、脱構築します。人間が動物化しているのではなく、人間はそもそも人間であり、また動物である、ということです。これは「倫理的な動物化」です。 では東の動物はどちらか、まず脱構築されたところのデリダ的動物化の意味を持つでしょう。そもそも精神分析的な強い人間は

    castle
    castle 2007/07/08
    「ボクは「動物化」を、人間が動物化しているのではなく、社会システム(=環境管理権力?)が、人間を動物のように扱おうとしているということではないかと考えます」「転倒し、自らを見いだすために人間化する」
  • なぜネットはリバタリアン化するのか 池田信夫「ウェブは資本主義を越えていく」 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    なぜウェブは資主義を越えていくのか 池田信夫「ウェブは資主義を越えていく」(ISBN:4822245969)を読んだ。書では、この野心的な題名の意味はなにかを経済学的に説明している。 資主義社会の前提は、資が稀少で労働は過剰だということだ。工場を建てて多くの労働者を集める資金をもっているのは限られた資家だから、資の希少性の価値として利潤が生まれる。・・・情報の生産については・・・ムーアの法則によって1960年代から今日まで計算能力の価格は1億分の1になった。・・・こうなると工場に労働者を集めるよりも、労働者が各自で「工場」をもって生産する方式が効率的になる。P96 これによってITの世界では、資家と労働者を区別している「資」の意味がなくなり、だれもが情報生産を行うことだできるようになった。「物質的生産の領域のかなた」にあるサイバースペースでは「貨幣の消滅」が起こるかもしれ

    なぜネットはリバタリアン化するのか 池田信夫「ウェブは資本主義を越えていく」 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
    castle
    castle 2007/07/08
    「世の中で人間が行動を決める要因は、道徳と法律と市場とアーキテクチャーの4つ」「人々がネットへ向かうのか/情報過多な社会では、稀少なものは「人の関心」。人々は価値があると「せき立て」られている」
  • 「資本とネーションと、時々、国家」 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    考える名無しさん 市場主義の広がりで国家にしがみつこうとする弱者が国家の機能不全によって今度はネットにしがみつく、これからはネットが社会的紐帯としてのネーションの役割を担う、という理屈でいいのかい? 第三の波平 国家にしがみつくというよりも、地域コミュニティ、企業内コミュニティからネットコミュニティへの変化。ネーションはいつの時代も絶えず働くわけだから。 考える名無しさん ネットの普及速度が速かったことが、ネーション=コミュニティの崩壊による要請によるもの、と言えることの事実的な根拠は何? 第三の波平 一番わかりやすいのはケータイでは?なぜケータイは爆発的に普及したのか。ここまで一気に普及するとは、製造側も予想されてなかった。いまネット端末として、PC使ったことがないケータイくんたちが増えているらしいし。 考える名無しさん 地域コミュティや企業内コミュニティが担保しているものが、ネットコミ

    「資本とネーションと、時々、国家」 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
    castle
    castle 2007/06/23
    「人間はこの外部(自然・偶然性)と戦い生存するために文明を発達させてきた。助け合い、全体を統括する国家、物質的な生産・流通を管理する資本。これらは外部をコントロールし、内部に回収するためにある」
  • マルクスの「労働価値」はなぜ消えたのか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    「貨幣は貨幣であることで貨幣である」 岩井克人の「貨幣論」(ASIN:4480084118)では、マルクスの「資論」(ASIN:4003412516)で展開された価値形態論が脱構築されている。マルクスの示した価値形態の図式を循環論Zへと展開することで、貨幣という形態には、マルクスがこだわった「価値に表されている労働」による根拠づけのような外部要因が入り込む必要がないことを示す。「貨幣は貨幣であることで貨幣である」とうことだ。 ではこれによって労働価値説はもはや葬り去られるのだろうか。ある意味で正しく、ある意味で正しくない。岩井はこのような循環論の他の例として「言語」を上げている。これは柄谷が、マルクスの価値形態論をソシュールの言語論で説明することと同じ意味であり、貨幣が構造主義的構造を持つことをしめす。 だから東は岩井の貨幣論をデリダの構造主義批判である「否定神学」と言った。すなわちマル

    マルクスの「労働価値」はなぜ消えたのか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
    castle
    castle 2006/10/01
    「マルクスの「労働」には外部がない」フロンティアとか? 交流する価値があると期待された外部に対してのみマネーはホットに流動すると。現代は「現代という未来」に到達してしまうことで外部でなくなる?
  • なぜ贈与は暴力なのか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    想像的な贈与 現代は貨幣による等価交換の世界であるといわれる。しかしそれでも贈与の世界でもある。一般的に贈与は親しい人の間で行われる。家族、友達、恋人ではお金のやり取りでなく、貸し借りでもなく、見返りのない贈与が行われている。 最近ではネットでも贈与の構図が働いている。たとえば2ちゃんねるはいろいろいわれますが、知らない者どうし集まっているのに、全般的に情報の贈与で成り立っている。なぜならそれが教える方も、教えられる方にも繋がる喜びがあるということだ。ネットは交換でなく、互酬(贈与)的世界なのだ。 贈与は「想像的な」関係をもとに作動している。他者への想像関係はもはや人間の根元である。精神分析でいえば、幼児期の母と子の自他未分化をの地点(享楽)を求めてやまないということだ。 誰もが愛する人のためになにかをしてあげたいと思う。親は子のために、彼氏は彼女にために。愛する者のためになにかをすること

    なぜ贈与は暴力なのか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
    castle
    castle 2006/07/11
    「想像関係とは、おまえがわたしで、わたしがおまえという関係であり、愛の関係であるとともに闘争であると言われる。たとえば過保護な親は、子供のためといいながら、子供の人生を横取りしている」
  • なぜ「VIPPERvsVIPブログ連合」は聖戦なのか  - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    「VIPPERvsVIPブログ連合」という聖戦 流行りは、「VIPPERvsVIPブログ連合」*1らしい。簡単にいえば、2ちゃんねるVIPネタを自分のブログでまとめて人を呼び、アフィリエイトなどで小銭を稼ぐのはけしからん、ということだ。(詳細はこのあたり*2、*3) 「のま」問題の再来といってもいいだろう。「のま」問題のときに、ボクはこれは「宗教戦争だ」といった。 このような意味で、2ちゃんねらーにとって「オマエモナー」は、単なる流行のフレーズ以上の特別な意味を持つ。 そして「モナー」とはこのような最強神としての偶像化である。「のまネコ」問題とは、その神が「無断で」金儲けに使われたのであり、神聖な神への冒涜の意味がある。これはある意味2ちゃねらーにとっても「宗教戦争」なのである。そうこれは「宗教戦争」というネタであるが、またマジなのだ。 「のまネコ」インスパイヤ問題はなぜ「戦争」なのか

    なぜ「VIPPERvsVIPブログ連合」は聖戦なのか  - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
    castle
    castle 2006/06/05
    「奪うのは歓迎され、奪われるのには反抗する」「呪術的な神性によって支えられているネット社会では、内部が重要視しされるのである」「「内部」の共通財産を「外部」へ売り払うな」
  • 記事]なぜ若者は「下流」でなく「のま猫」に怒るのか 場の拘束と解放 その2 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    「空気を読む」ことの過剰とは薄氷化する場への恐怖 「空気を読む」というときの「空気」のメタファーが示すものは、「見えないがある」、ということであり、見えないものとは言葉である。「言葉として発せられなくてもそこにある言葉」である。たとえば「いいよ」というお世辞の裏に「いいかげんにしろよ」という意味があることを理解する、ということだ。 日はハイコンテクスト社会と言われてきた。「言葉として発せられなくてもそこにある言葉」によって社会がなりたつ。外国人が日人がわかりにくいのは、このような言葉を読むことが困難であるからだ。このように「言葉として発せられなくてもそこにある言葉」としてコミュニケーションを行ってきた日社会において、それを支えるコンテクスト(文脈)の共有が困難になってきている。ハイコンテクストがくずれてきている。 それでも僕たちはハイコンテクストを前提とする曖昧にコミュニケーション手

    記事]なぜ若者は「下流」でなく「のま猫」に怒るのか 場の拘束と解放 その2 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
    castle
    castle 2006/04/27
    「なぜ若者は「下流」でなく「のま猫」に怒るのか」「確かに経済的に恵まれることは望むが、「経済的に恵まれていることが良い」とベタに信じられるほどに、幸せな世界には住んでいない。」
  • まなざしの快楽 〜 「薄氷のコミュニケーション」の章 - なぜ若者は怒らずにキレるのか?

    薄氷の共犯関係 「若者よ怒れ」 平野さんは学生運動の元闘士。出版社時代に労働争議で指名解雇された後の76年、新宿ロフトを開店した。「わかってたまるか」社会への怒りをぶつける若者の姿勢と音楽にほれ込んだ。82年、店を仲間に託し、海外放浪の旅に出る。10年後に帰国したとき、ロックは業界に取り込まれ、メジャー志向のバンドが増えていた。若者の話しぶりにも異変を感じた。いつも「君の気持ちもわかるよ」から始まり、「ま、いいか」で終わる。「わかってたまるか」と、ぶつかってこそ得られる絆。それを知ってもらおうと、95年に「ロフトプラスワン」を作った。右翼、左翼、AV監督、オタク、格闘家らが出演し、客と討論するトークのライブハウスだ。・・・ あらがいようのない時代の流れ。だが、平野さんは違和感を覚える。「何でも受容する懐の深さが新宿のよさだったのに」髪の毛を逆立てたロック少年が警官に職務質問され、かばんを開

    まなざしの快楽 〜 「薄氷のコミュニケーション」の章 - なぜ若者は怒らずにキレるのか?
    castle
    castle 2006/04/12
    怒りが伝わる表現方法がわからないとも。正義とは何か。
  • 「自由に享楽させろ」  享楽自由主義の時代 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    ①「社会的」欲望と「脱社会的」享楽 強烈な生物学的快感は享楽として、社会的に禁止(去勢)されている。しかしバーチャル技術はそれを可能にしつつある。享楽に溺れるものは社会活動に支障をきたすだろう。そして享楽の場は広がっている。ゲーム、容易なセックス、ネットコミュニケーションなとなど。 それは言語が溶解する地点である。欲望はその前で踏みとどまらせるための社会(言語)的機能である。欲望は構造化されたイメージ、すなわち社会(言語)に許容される対象を欲望するが、享楽にはイメージはない。ただ身体的、生物学的、社会(言語)外にある快感である。 SMは社会的であり、「(社会的な)反社会的」イメージの欲望である。社会的に高い地位の人にSM指向が強いと言われるのは、社会性に対する反社会がその快感の原動力になっているからだ。しかしドラッグそのもの快楽にはイメージはない。ドラッグへ向かうとき、はじめは「(社会的な

    「自由に享楽させろ」  享楽自由主義の時代 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
  • 「無垢」ジャンキー - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    主体とは否定神学システムである。否定神学システムとは消失点(断絶)を空想で隠す。消失点とは自己言及点だ。この「私は誰だ」に答えられないというシステムの不全点から、「お前は誰でもない」と偶然性が進入し続ける。だから「オマエモナー」は空想を暴露し、恐怖の消失点をちらつかせる呪文だ。この言葉により、フレーム問題の前で人はフリーズする。空想は「私」を溶解させる消失点を隠すベールだ。人は消失点から逃れるために、空想を見る。空想とは「私は誰でもないこの私だ」という現実(リアリティ)そのものだ。 現代の情報化社会は、消失点からの偶然性の進入を活発化させている。もはや単純な空想は溶解されてしまう。たとえばもはや人はブルジョア/プロレタリアートのような二項対立の空想を見れない。このような話は、人はオヤジギャクのように、むしろ嫌悪を覚える。それは、空想として機能するのではなく、むしろ現実が空想であることを暴露

    「無垢」ジャンキー - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
    castle
    castle 2006/02/26
    「現実が空想であることを暴露するからだ」
  • なぜ「否定神学システム」を回避することは不可能なのか。 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    なにが外部へ排除(欲望)されているか 「グーグル技術者たちが作り込んでいく情報発電所がいったん動き出したら人間の介在なしに自動的に事を成していく」世界である」*1というとき、この「人間を介なしに」という空想は、ボクが「機械論の欲望」と呼ぶものである。完全な世界=「システムに還元できずいつも邪魔をする管理し得ない消失点(断絶)が消失する」ユートピアという無垢である。 たとえばマルクス主義的空想も、完全なシステムを目指す。そしてシステムにはいつも不完全である。ということを隠すための「ブルジョア(/プロレタリア)」という空想がある。人はいつもこのシステムの不完全な消失点に悩まされる。システムの消失点、予測できず、管理されない。それを隠すために完全であるがただ「邪魔する者」がいるという空想が現れる。 そこではなにが外部へ排除(欲望)されているか、ということだ。グーグルの「人間の介在なしに」で排除

    なぜ「否定神学システム」を回避することは不可能なのか。 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
    castle
    castle 2006/02/26
    動的な否定神学システム=空想の代謝