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ロシアに関するchorinskyのブックマーク (5)

  • ロシア駐在日記

    2013年10月13日20:11 カテゴリソ連の話 ちょっとこわいソ連の話 前回、息子の公立小学校の入学手続きについて書きましたけれども、書いていて私が大学に入るときのことを思い出しました。公立小学校とは違って、ロシアの大学には、決まった記入用紙がしっかりありました。そして、実は、私には、その用紙にまつわる、一生忘れられない体験があります。今日はその話をしたいと思います。 ソ連の大学入学願書の前半は日の履歴書とそう変わらない内容でした。しかし、後半になると、入学希望者の家族に関する下記のような質問が並んでいました。 1)あなたの家族・親戚で「富農」(クラーク)として流刑になった人がいますか? 2)あなたの家族・親戚で「人民の敵」として逮捕された人がいますか? 3)あなたの家族・親戚でドイツ軍が占領した地域に残っていた人がいますか? ソ連の歴史を日語で説明するのは難しいので、ごく簡単にま

    ロシア駐在日記
  • ロシアでは「ごめんなさい」はかえって怒られる : ロシア駐在日記

    2012年02月13日02:13 カテゴリ日人とロシア人ってやっぱり違う?子育て in ロシア ロシアでは「ごめんなさい」はかえって怒られる 今日は通訳の話です。 部下が失敗をしたために、上司とあまり楽しくない話になってしまったときの通訳のことでちょっと困っていることがあります。 実は、失敗したときの行動は日人とロシア人とでは違うのです。 日だったら、まず「申し訳ありません」と謝ることになるでしょう。そして、この「謝る」というステップが済んで初めて失敗に至った経緯をまとめたり、今後の進め方を検討したりするステップにうつると思います。 ところが、ロシア人の行動は違います。謝りの言葉を言わないか、さらっと言う程度。そして失敗に至ってしまった経緯からいきなり述べ始めます。そして、日人はロシア人のそういう行動について「また言い訳をしている」と決まって怒ってしまいます。 そういう場面の通訳を

    ロシアでは「ごめんなさい」はかえって怒られる : ロシア駐在日記
    chorinsky
    chorinsky 2012/02/19
    面白い。コミュニケーションは暗黙の形式・型によって支えられてる。バックグラウンドが違うと、互いにかみ合わない。
  • 葛根廟事件 - Wikipedia

    満洲国興安総省(現中国内モンゴル自治区ヒンガン盟 葛根廟と興安街の位置(1944年作成の満洲国地図) 葛根廟事件(かっこんびょうじけん)は、1945年8月14日、満洲国興安総省の葛根廟[注釈 1]付近において日人避難民千数百人(一説には1,300名)が攻撃を受け、1,000名以上が虐殺され、あるいは自決した事件[1][2][3]。葛根廟駅事件ともいう。避難民の約9割以上が女性や子供であった[1]。ソ連軍が去った後に、生存者も自決したり[4]、その後の避難の途上で中国人暴民やソ連兵などの襲撃を再び受けるなどして、日帰還を目指す多くの日人居留民が犠牲となった。はっきり確認された生存者は百十数名、後に発見された残留孤児を入れても百数十名に過ぎないという[5]。 8月14日の葛根廟事件、8月17日の東京荏原開拓団964名の遭難(双明子事件)、8月25日の仁義佛立講開拓団400名の遭難(洮南西

    葛根廟事件 - Wikipedia
  • ❤️ Путин лапает избирательниц! | Putin paws women voters!

    🎬 Бэкстейдж: https://www.youtube.com/watch?v=0ff4p9wtzwc Ответственность за создание проекта взяла на себя группировка My Duck’s Vision * https://myducksvision.ru/projects/cheeseandrice/doyouknowher

    ❤️ Путин лапает избирательниц! | Putin paws women voters!
    chorinsky
    chorinsky 2011/09/10
    電波少年レベルの企画.美人おおいなー
  • ウラジーミル・コマロフ - Wikipedia

    ヴラジーミル・ミハイロヴィチ・コマロフ(ロシア語: Влади́мир Миха́йлович Комаро́в; IPA: [vlɐˈdʲimʲɪr mʲɪˈxajləvʲɪtɕ kəmɐˈrof]; 1927年3月16日 – 1967年4月24日)は、ソヴィエト連邦の試験飛行操縦士、航空宇宙飛行士、航空宇宙機関士。1964年10月、複数の搭乗員を乗船させた宇宙飛行、ヴォスホート1号 (Восход-1) の指揮を執った。後のソユーズ1号 (Союз-1) の打上げにおいては、有人宇宙飛行で初の単独操縦士に選抜され、ソ連の宇宙飛行士として2度の宇宙飛行を経験した最初の人物となった。1967年4月23日、コマロフはソユーズ1号に単独で搭乗し、宇宙へと打ち上げられたが、落下傘型安全装置が機能せず、ソユーズ宇宙船は地上に墜落した。宇宙事故で死亡した最初の人物にもなった[1]。 1960年に選抜

    ウラジーミル・コマロフ - Wikipedia
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