熊谷 徹 @ToruKumagai 75年前の今日、1944年8月1日にポーランドの抵抗組織はワルシャワのドイツ占領軍に対して一斉蜂起。ビスワ川の東岸に迫ったソ連軍が救援してくれるだろうという期待は空しく、圧倒的なドイツ軍の火力の前にポーランドの抵抗派は打ち砕かれ、約20万人が戦火の犠牲となった。 pic.twitter.com/lq3DPQiTNb 2019-08-02 04:26:16
The connection between dress and war is not far to seek; your finest clothes are those you wear as soldiers. By Virginia Woolf 「衣装と戦争の関係を見つけるのはそんなに難しくはない、最も美しい衣装はあなたが兵士として着る服なのだから」ヴァージニア・ウルフ 海外ブランドと言えば、イブサンローランやバレンシアガ、アルマーニやバーバリーなど、イタリア、イギリス、フランスなどの会社がぱっと思いつくかもしれません。 ドイツのファッションブランドとして最も成功したものの一つとして「HUGO BOSS」が挙げられます。今では、世界中に100以上の店舗を展開し、1万人以上の従業員を抱える大企業に発展したこの大企業は、1924年、第一次世界大戦後、混乱期のドイツに設立されました。 ヒ
2014年8月15日、日本は69回目の終戦記念日を迎えました。69年前、成人として8月15日を迎えた人は、今年、89歳を超えているという計算になり、兵士として太平洋戦争を戦った経験のある人はとても少数になりました。1988年に私が認知症の治療を始めたころ、外来受診する男性の患者さんの多くは、兵役の経験を持ち、南方で、あるいは中国での従軍体験を持っていました。それから20年以上が経過した今日、認知症外来を受診する患者さんが語る戦争体験は、集団疎開であったり、親に手を引かれて逃げ惑った空襲の体験であったりして、前の世代が持っていた戦争体験とは明らかに質の異なるものになっています。私は今年62歳ですから、これからの患者さんは、戦争体験どころか、戦後の苦しい時代の経験さえ、実体験として記憶していない世代になっていくのでしょう。 1952年生まれの私にとって、太平洋戦争は決して、遠い昔の歴史の教科書
沖縄戦での久米島で、米軍から逃れて自死しようとして住民の呼び掛けで一命を取り留めた渡嘉敷一郎さん=19日、東京都練馬区の自宅 【東京】沖縄戦で本島における日本軍の組織的戦闘の終了後、久米島に配備されていた日本軍にスパイ容疑で虐殺された仲村渠明勇さんに命を救われた少年がいた。現在、東京都練馬区で暮らす渡嘉敷一郎さん(80)だ。渡嘉敷さんは久米島に上陸した米軍に捕らわれるのを恐れて池に飛び込んで命を絶とうとしたところ、仲村渠さんの呼び掛けで思いとどまった。同じ久米島出身の妻政子さん(80)が住民虐殺の歴史を語り継ぐ活動を続けており、一郎さんも参加して語り始めた。本紙に体験を語るのは初めてで「一番怖かったのは日本兵だった」と振り返る。 沖縄本島で捕らわれた仲村渠さんは1945年6月26日、米軍と共に久米島に上陸し、住民に投降を呼び掛けていた。日本のポツダム宣言受諾後の8月18日、島にいた日本軍の
テルアビブ大学(イスラエル)のアザー・ガット教授は、戦争の歴史を分析した著書『文明と戦争』(中央公論新社)の中で、国家が持続可能な常備軍の規模を人口の1%までであると指摘した。国家と軍備の規模を比較する場合、通常は軍事費の対国内総生産比率や国家予算比率で比較するものだが、このやり方であれば国民経済計算が開発される以前の昔の国々についても比較することができる。国民計算が登場するのは1929年の大恐慌以降のことで、歴史上の比較分析にはあまり向いていない指標なのだ。 原則上全員に兵役義務があった紀元前2000年のエジプトでも300万人の人口に対して2万人(0.67%)の兵がいたに過ぎない。またローマ帝国の人口は、ピークといわれた紀元前200年でも4600万人、1%ならば46万人だが、ディオクレティアス帝(西暦284年〜305年)の時には60万人の兵をそろえた。しかし、これは財政を圧迫する持続不可
アメリカ西部ワシントン州の地方紙に、ある日本人留学生の勇気ある行動を伝える記事が掲載され反響を呼んでいます。留学先の高校のロゴマークに原子爆弾でできたキノコ雲のデザインが使われていることに1人、疑問の声を上げたのです。 福岡県の高校3年生、古賀野々華さんは、こうした背景を知らないまま、交換留学で現地の高校に通うことになりました。 しかし、学校に通う中で、ロゴマークや町の歴史について知り、地元の人たちの原爆に対する考え方を学ぶ中で、みずからが原爆についてどう感じているかを伝えたいと思うようになったということです。 そして、学校の教師やホストファミリーの後押しを受けて、先月30日、放送を学ぶ生徒たちが、校内向けに制作する動画に出演し、自分の意見を伝えました。 動画で古賀さんは「リッチランド高校では、キノコ雲のロゴは皆に愛され、いろんな所に掲げられています。自分にとってのキノコ雲は犠牲になった人
一般的な話題 アンモニアがふたたび世界を変える ~第2次世界大戦中のとある出来事~ 2016/4/6 一般的な話題, 化学者のつぶやき BASF, アンモニア コメント: 0 投稿者: Tshozo Tshozoです。 タイトルの件、既にSHO氏によりこちらの記事で先を越されましたが、歴史的な話で対抗することにしました。窒素固定の話も未だ終わってない(こちら)のに本論書いていいのかという指摘がありそうですが、エネルギーキャリア(こちら)の話の続きということで1トピックとして描いてみようと思います。 【アンモニアとは】 最早書くまでもなくBASFが世界で初めて大量合成に成功した、おそらく地球上で最も重要な窒素含有物です。2015年時点で世界総生産量が年間1億6千万トンを超え、これを超える生産量の化学品は硫酸くらいしかありません。そのうちざっくり8割が化学肥料に消費され、あとの2割は化成品や薬
「桜花」――まもなく満開となる桜のことではない。戦時中の日本軍の非常さを象徴する、生還不能の特攻兵器につけられた名である。大型爆弾に操縦席と翼、ロケットをつけ、母機から放された瞬間に搭乗員の死が約束されるこの兵器は、敵の米軍にとって理解不能だったようで、彼らは「Baka Bomb(馬鹿爆弾)」と呼んでいた。 この兵器を発案した男は、終戦直後に死亡したとされたが、生存説もささやかれ、長らくその消息は謎に包まれていた。だが、5年前、遺族から神立さんへ一報があり、戦後、別人として生きてきた詳細な軌跡が判明する。 「特攻兵器『桜花』の生みの親」という過去を消し去って生きた男は、どのような後半生を送っていたのか? 特攻兵器「桜花」の初陣は全機撃墜された いまから74年前、昭和20(1945)年3月21日午前11時20分。鹿児島県の鹿屋海軍航空基地から、「神雷(じんらい)部隊」の異名をもつ第七二一海軍
>リテラ<朝ドラ『まんぷく』への「憲兵を悪く描くな」攻撃は異常! 首絞め、逆さ吊るし…本当の憲兵や特高の拷問はもっとヒドい この論考に小林多喜二の事例が書かれていますが、共産党員ではありませんでしたが反戦川柳作家鶴彬の事例もあります。 特高警察の拷問の末、中野区野方署で赤痢に罹り、隔離病院の淀橋区柏木(現・新宿区北新宿)豊多摩病院で死亡しました。 新宿区内に、鶴彬顕彰碑を建立する運動があります。 金沢市卯辰山に建立された鶴彬顕彰碑 「暁をいだいて闇にゐる蕾」1936年3月初出 憲兵のこわーい実話からの散文詩です。 ・・・・・・・・・・・・・・ 竹矢来 京 土竜 「しんぶん赤旗」1989年2月4日付「読者の文芸」に初出 岡山県上房郡 五月の山村に 時ならぬエンジン音が谺(こだま)した 運転するのは憲兵下士官 サイドカーには憲兵大尉 行き先は村役場 威丈高に怒鳴る大尉の前に 村長と徴兵係とが
【再放送は】2019年2月6日(水)午前0時40分~1時29分(5日深夜) 朝鮮戦争 秘録 ~知られざる権力者の攻防~ http://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20190203 去年行われた韓国と北朝鮮の首脳会談で、ようやく「終結」に向けて動き出した朝鮮戦争。 1953年に休戦協定が結ばれたが平和条約の締結には至らず、依然として“戦争状態”が続いている。当時、アメリカ・ソ連・中国といった大国の思惑が複雑に絡み合って始まった戦争は、なぜ長期化し、いまだに終結できずにいるのか。NHKは、その謎を解く手がかりとなる秘密文書を独自に入手した。スターリン、毛沢東、キム・イルソンの間で交わされていた電報や直筆の手紙、そして極秘会談の記録だ。見えてきたのは、スターリンが北朝鮮に韓国への侵攻を決断させ、中国を巻き込んで戦争を泥沼化させていった
もにょもにょ @monyomonyo5 三親等以内の親族の軍歴の取り方お伝えします! もし身内に第二次大戦時に兵隊に行っていた方がいるようでしたら、 どんな部隊に配属されて、 給料いくらだったかとかわかるので、 オススメです! 続く) pic.twitter.com/tty1LuD1iB 2019-01-28 01:50:42 もにょもにょ @monyomonyo5 まずは心構えを。 ・とにかく人に聞こう! 兵籍簿取り慣れている人はあまりいらっしゃらないと思います。 わからない事ありましたら、 親族とか役所とかに聞きまくりましょう。 ・気長にやろう! 基本電話や封書でのやり取りになります。 気長に構えましょう! 続く) pic.twitter.com/UzFPXL7GT3 2019-01-28 01:56:03
「シベリア抑留」という歴史上の悲劇をご存じだろうか。 終戦直後、当時の満州国などの外地に残っていた日本兵ら約60万人が、ソ連によって武装解除・投降を余儀なくされ、捕虜としてシベリアをはじめとするソ連各地に移送された出来事である。そこでは想像を絶する寒さや容赦のない重労働、劣悪な生活環境などにより、約10人に1人にあたる約6万人が命を落としたといわれている。 今回で第6回目を数える「極限メシ」で話をうかがったのは、極寒のシベリアで2年4カ月もの間抑留された後、生還した中島裕さん(92歳)。中島さんと戦友たちの命運を分けたものはなんだったのか。極限状態の中、いったい何を食べて生き延びたのだろうか。 壮絶なエピソードに加え、ご本人が抑留体験を回想しながら描きためたという絵もぜひご覧いただきたい。 話す人:中島裕(なかじま ゆたか)さん 大正15年(1926年)北海道生まれ。昭和19年(1944年
戦争を扱ったフィクションで、たまにこの戦争は負けるッ!!みたいなオッさんが出てくる。彼らのような人間は実在してて、元気一杯生きていた。断じて空想上の存在ではない。 記録として残っている日本負ける実在するキャラとして、超有名なのが山下清である。山下清は貼絵画家で、今では知らない人が多いんろうけど、かっては裸の大将放浪記というタイトルでドラマ化されていたほどの人物だ。 裸の大将放浪記 山下清物語 [DVD] 出版社/メーカー: 角川映画発売日: 2008/11/21メディア: DVD クリック: 17回この商品を含むブログを見る 山下清は超リアリストの上に、全く雰囲気が読めない。日本が負ける理由は、道具が悪いのと国が狭いのと数カ国相手に戦争するからといった単純明快なもの、確かに正しいんだけど雰囲気読めよなっていう感じなのだが、清は子供の頃から一貫して日本戦争に負けると言い張り続けて、幾度も殴ら
人々の意識と行動を変えた名写真 今やスマホで誰もが写真を撮影し、すぐにSNSにアップして数万・数十万の人に届く。写真を撮影し公表する「特権」は失われ誰もが表現者になれる時代です。 昔はそのような「時代を切り取る」仕事は写真家の仕事でした。新聞やテレビが大きな影響力を持っていた時代、彼ら戦場カメラマンの命がけの仕事によって人々の意識と行動が変わり社会を動かしていました。その写真は今でも我々の心を大きく揺さぶります。 今回はそのような時代を動かした伝説の名写真をピックアップします。 1. 「崩れ落ちる兵士」 1936年 ロバート・キャパ(1913-1954) Credit: ©Robert Capa © International Center of Photography/Magnum Photos 真偽について議論もある有名すぎる写真 ロバート・キャパはハンガリー出身の写真家で、フランス誌
吉村英崇@NOTE はじめますた _(:3 」∠ )_ @Count_Down_000 戦場の太刀使いについて 「太刀は棒の如く振り回す」 「ただひたすらに振る」 という表現があるようですが ここで戦国マンガ「#花の慶次」公式Facebookページで紹介された #ガチ甲冑合戦 のフルボッコ動画を御覧ください。 #ガチ甲冑合戦 の詳細 samuraijp.xsrv.jp/event.html pic.twitter.com/Fv9AmSexTp 2018-10-02 20:50:42 みんみんぜみ @inuchochin 古い時代の伝書にある残心はこっちの意味が近い気がする。一つ打っても次、次、次と続くのが残心。 相手が倒れてもまだ警戒する意味の残心はその延長の意味で、こちらが主になったのは江戸時代か維新後のどこかだと思う。 2018-10-04 08:15:03
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