道徳的判断について、われわれはついそれを、規範的な主張であるかのように理解してしまうバイアスをかかえている。 たとえばわれわれは、道徳的判断を、人は道徳的に生きなければならないという、一種の「お説教」として考えてしまうことが多い。ここは個人的に誤解しやすいポイントなのだが、道徳的判断というのは、まずは形式的妥当性のレベルで正しいとかまちがっているものであると思う。少し自分の整理のために書いておこう。 道徳にまちがいや真理があるのかということを言う人がいるのだが、道徳的推論をあやまってる場合、基本的な推論やスケールをまちがってることが多い。以下の事例を考えよう。 郵便局員 太郎の母は子どもの生活を心配し、太郎が必要とするであろう食べ物などを送った。郵便局員が太郎に、母からの贈り物を届けてくれた。太郎は母からの贈り物を郵便局員自身からもらったような気分になり、郵便局員に負い目を感じる。 ここで