[負け丼](1/1) 負け丼というものを注文してみた。 たまたま訪れた街のふらりと寄った定食屋。妙ちきりんな名前が定番メニューの中にまぎれている。 カツ丼とかけているであろう負け丼を注文すると、一癖も二癖もありそうな店のオヤジがにやりと笑った。 インパクトのあるものが出てきたら、写真を撮ってブログのネタにしてやろうと待ちかまえていたら、どんぶり一杯の白いご飯が! 目を丸くする僕を見て店のオヤジはまたにやにや笑い。780円というカツ丼なみの値段で山盛りご飯だけなんてぼったくりもいいところだ。しかもぱっと見ただのご飯ではブログのネタにもなりやしない。 自分の決断を悔やみながら、白いご飯をのどの奥に押しこんでいく。ネーミングにやられて注文してしまったのは僕の責任だけど、やっぱりオンリーご飯で780円は高すぎだと思う。 食ったからにはお代を払うが、店のオヤジに文句の一つでも言って
國學院雑誌3月号を読みました。伊藤悦子さんの「久留米文化財収蔵館寄託「合戦絵巻」について」が載っており、「平治物語絵巻」六波羅合戦巻の新出模本について考察しています。この資料は伊藤さんが2014年に自分で調査して発見したものですが、同年、早稲田大学図書館でも新たに模本を収蔵、滝沢みかさんが紹介しています(早大図書館紀要 2015)。平治物語は早い段階で絵巻が作られ、一部現存していることが軍記物語の中でも顕著な特徴で、六波羅合戦巻の部分は断簡と模本しか残っておらず、近世末期の資料であっても今後の解明が俟たれます。 同誌には津島知明さんの「『枕草子』「香炉峯の雪」と「三月ばかり」の段を読み直す」も載っています。教材研究には必読。教室では章段を切り取って読むため、清少納言の自讃談・失敗談とだけ読まれがちだが、前後の配列や定子サロンの当時の状況を加味して読めば、べつのことがわかってくる、と論じてい
今の岐阜県養老町で1900年に発売され、2000年に姿を消した「養老サイダー」を復刻させる動きが進んでいる。観光名所の養老の滝は元号「養老」の由来とされ、今年は改元から1300年の節目の年。町観光協会が中心になり、この夏ごろまでに試作品を完成させたい考えだ。 養老サイダーは、名水百選でもある養老公園(同町)の「菊水泉」と同じ水源の水を使っていた。今の同県大垣市で1890年に創業した「開屋(ひらきや)」が、名水を求めて工場を同町に移転した1900年に発売を始めた。 1902年には本社も町内に移転し、64年には社名を「養老サイダー」に改めた。「炭酸が強くすっきりした味」と地元を中心に親しまれ、町観光協会によると、品評会で高く評価されるなどして全国的に知名度が高まった1910年ごろには「東の三ツ矢、西の養老」と言われたという。だが、4代目の日比野泰敏さんが亡くなった半年後の2000年12月に製造
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く