私、餡子のためなら逆立ちだってしますよ。 こじらせている。 食べたいと思ったら食べたいのである。 ここが北カリフォルニアの片田舎であろうと、私があんみつが食べたいと思えば、あんみつは今すぐ作って食べなくてはいけないものになる。食いしん坊の思考は凄まじい。 子供が観ていたアニメで、赤ちゃんが空の…
http://anond.hatelabo.jp/20080626112533の「底辺正社員の給与明細」を書いた増田です。 なんかブックマークとかですごい反応が。正直びっくりした。増田では初めて。 感謝をこめて、反応に反応してみるよ。 職種と肩書き、住んでいる場所、会社の階級もないと参考にならんのじゃないのか?(b:id:gin-oi2) スペックをもうちょっとさらしてみるよ。 地域は広い意味での関東です。 企業の事情わりと詳しく書いちゃったので、これぐらいでお願いします。業種は製造業。少量多品種生産の工場なので自働車部品から産業機器部品まで何でも。 最近は仕事なくって、街灯なんてのも作ってるぜ。会社の規模は中規模になるみたい。 いま定義を調べた。職業はCAD/CAMと5軸マシニングセンタのオペレータだけどなんでもやるぜ。 ソフトウエアの月刊保守料で俺を3人雇っておつりがきますよ(笑ってく
ご訪問いただいたお客様へのお知らせ アクセスいただいたWebサービスは提供を終了いたしました。 長年にわたり、多くの皆様にご利用いただきましたことを心よりお礼申し上げます。 ODNトップページへ
「承認欲求」という言葉が、何か問題を根本からねじまげているそのもののように思える。 「承認欲求」という概念こそが、「社会からの承認」という欲求を心理主義的に「ひとつの主体」のなかに発見してしまっている原因なのではないのか。 問題解決の手段としての概念把握をするのであれば、本来、そこで必要なのは、「社会への承認」なのではないのか。 社会に対する信頼と言ってもいい。 自分が生きていくことができるという「希望的観測」。 それがないことが、それが「見えない」ことが、それが「認められない」ことが問題の核心であるはずだろう。 それを、その内省的自我の主観的な性格にのみ焦点を当てるからこそ、それが「認」定を「承」けることを求める「欲求」だ、などという「正しい」見地からの意見となってしまうわけで、そんなものはわざわざ自分で目をふさいでいるようなものだ。 また、その「希望的観測」を「安心感」だというとセキュ
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く