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ブックマーク / ameblo.jp/metameta7 (4)

  • 『かけ算の式の順番、矢野健太郎氏の考え』

    「4×6、6×4論争」(論争自体の初出は、1972年1月26日の朝日新聞)については、矢野健太郎氏も書いていました。(新潮文庫『おかしなおかしな数学者』1974年、119ページ以下) 名古屋のラジオ局から電話がかかってきて、意見を求められたので、「どっちでもい」と答えたら、その理由を1時間後に聞かせてほしい、そのままラジオで放送するから、ということで、1時間必死に考え、次のように答えたということです。 1人に4つずつ6人に配るには、まず鈴木君に4個、次の田中君に4個、‥‥という方法がある。その図があります。縦に4個のミカンを点線で囲んだ列が6列あります。 「このように考えたとすれば、必要なミカンの数は、4のかたまりが6つあることになるから、 4×6=24 と計算するのが自然であろう。」 しかし、つぎの方法もあるとして、まずミカンを1個ずつ6人全員に配り、つぎにまたミカンを1個ずつ6人全員に

  • 『かけ算の歴史についての走り書き』

    考えたら不思議な気もするのですが,かけ算の式の順番問題は,累加で教えていた時代には出てこなかった。 大雑把な流れは次のようなところでしょうか。 奈良~江戸時代から大正まで かけ算九九は「片九九」だった。順番は問題にならない。 戦国時代末からソロバンが使われると,式の順番は,ソロバンの置き方(ソロバンの右(実;被乗数)におくか,左(法;乗数)に置くか)の区別としてあったとしても(算木の場合は,算盤の上欄に置くか,下欄に置くか),口伝は片九九だから,4×3も「三四12」と頭の中で唱えている。証拠の文献は,ソロバンの解説書の記述にあり。 大正から1950年代まで かけ算九九は「総九九」,かけ算の教え方は累加の時代。式の順番は問題に上がってこない。 50年代から現在 累加批判を遠山の数教協が始める。「1あたり量×土台量=全体量」として教えるべきだと。 72年にかけ算の順番が問題になっていることが始

  • 『かけ算の式の順番について、遠山啓、森毅、銀林浩さんの各見解』

    「子どもが6人います。みかんを4個ずつあげるには、いくついるでしょう」 この問題で6×4という式を書いた生徒に×を付けた先生がいて、生徒の親が抗議した。発端は、これでした。新聞報道は、1972年の朝日。 遠山啓さんの意見は、どっちでもいい、というものでしたが、それは、どっちを「1あたり分」とみることも可能だから、というものでした。(現在、『遠山啓著作集 数学教育論シリーズ5 量とは何かⅠ』所収「6×4、4×6論争にひそむ意味」) 森毅さんの見解は次のようなものです。(『数の現象学』「次元を異にする3種の乗法」初版1978年、現在、ちくま学芸文庫) 「4×6とか6×4とかいった順序は、日とヨーロッパでは違う。日は「4の6倍」式に4×6と書くが、ヨーロッパでは「6倍の4」式に6×4と書く。これは左側通行か右側通行みたいなもので、言語習慣から来ている。ただし、日式の方が合理的というのが世界

  • 『「式の順番」が違うとバツにする元凶は数教協か? 再調査結果』

    mixiのトピ:http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=38880369&comment_count=750&comm_id=63370 では,小学校の教員の方は2,3の方の発言があっただけだなのですが,下記「かける数とかけられる数」スレッドには,小学校関係者の書き込みがかなりあるようです。 http://www.inter-edu.com/forum/read.php?903,1013957,1051510 で,このスレッドには,「数学的には正しくても算数としては間違っていることもある」とか,「「数」に交換法則は適用できますが,「量」には適用できません」などという,びっくりこいた発言が飛び出しています。 しかも,数教協がそのような主張をしているように書いているので,数教協隠れ信徒としては,そこで紹介されている文献を自分の目で確かめねばならなくなりました。 榊忠男 監修

    cugel
    cugel 2010/11/15
    "かけられる2つの数量の性格が違いますから,それらの数量を入れ替えることはできません"……そう言われると、性格の異なる量をなぜ掛けてもいいのかわかんなくなるぞ。
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