間違いの指摘というのは、根拠となる出典を示すなど大変なんだよな。東氏は事実誤認の指摘が少ないと言っていたけど、時間が掛かっているだけだと思うよ ゲーム
間違いの指摘というのは、根拠となる出典を示すなど大変なんだよな。東氏は事実誤認の指摘が少ないと言っていたけど、時間が掛かっているだけだと思うよ ゲーム
なんとも残念な結果です。 「ゲンロン8 ゲームの時代」という書籍内の、ゲームの歴史について数十ページにわたって語られている記事には、あまりにも事実誤認が多く、各方面からの激しい指摘が飛び、大きな話題を呼んでしまったことをご記憶の方も多いでしょう。 でもって、電ファミニコユーザーさんが一肌脱いで、60ページほどの記事内にある、200箇所を越える問題点の指摘を著者の方々に提示したのですが、それに対する書籍サイドからの返答がこちらになるわけです。 『ゲンロン8』共同討議へのご指摘に対する返答 うん。ここまで真摯じゃない返答は、めったに見られるものじゃありません。昭和の時代の役所のようだ。 かくして、この騒動は、各方面にダメージだけを残し、結果としてみんなが損をしてしまうという最悪の方向に着地することになりそうです。なんとも残念な結末だなぁ。 この騒動で、もっともダメージを受けるのは、アカデミズム
昨日に引き続き、いまネットで話題の「ゲンロン8 ゲームの時代」について、思うところを書いてみます。 たくさん発見できる事実誤認についても、いろいろと書きたいことはあるのですが、それらはいったん横に置くとして、ここではゲームを捉えるときの全体的な視点に関する違和感について書いておきます。 ものすごく気になったのは、テレビゲームというコンテンツを、かなり偏った視点から取り扱っていることです。まるで小説や映画のように個人がテクストと対峙する形式のコンテンツと同じように、テレビゲームという文化を捉えようとしているといいますか。 そこには、モニターの前に複数のプレイヤーが集い、ゲームを楽しむという光景への洞察が希薄です。テレビゲームが持つ、みんなが楽しむパーティーグッズ的な側面は、ばっさりと切り捨てられている。そちらに注ぎ込まれた開発者たちの労力は無視されている。 これが、個人的なゲーム評であるとい
ゲンロン8について、まだ読んでないけど、批判するひとには建設的な議論をしてほしいな、と思う。ゲーム論自体はもっともっと発展していくべきで、その議論の芽を摘むようなかたちの批判はしてはいけないと思う。
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く