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公娼制度に関するdj19のブックマーク (9)

  • 日中戦争勃発直前の「廃娼運動」状況 - Apeman’s diary

    長年、活動を行ってきた廓清会と婦人矯風会は、一九二六年(大正一五)六月に廓清会婦人矯風会連合(同年一〇月以降、廃娼連盟と改称)を結成、一九二九年までの三年を第一期として運動を進めたが、一九三〇年から五カ年計画で一九三四年をめどに廃娼の実現を期し、第二期となる運動を展開した。 これに先だって一九二九年にジュネーヴで開催された国際連盟婦人児童売買委員会は、東洋諸国を対象とする「婦人児童売買実地調査」の続行を承認、翌三〇年五月、バスコム・ジョンソンを委員長とする三名の委員による調査団派遣が決定され、三一年六月にジョンソン調査団は東京に入った。政府や業者による実態の隠蔽工作にもかかわらず、三三年に発表された報告書では日の「公認妓楼」すなわち公娼制の存在が広く知られることとなり、これが「婦女売買」の土台をなしていることが明確に指摘された(「ジョンソン調査団報告書」『日女性運動資料集成 第九巻』一

    日中戦争勃発直前の「廃娼運動」状況 - Apeman’s diary
  • 売春業者と癒着する警察 - 誰かの妄想・はてなブログ版

    (「戦前の日」武田知弘、P23-24) 貸座敷業はどこでもやっていいというわけではなく、開業できるのは国が許可した場所に限られていた。この合法的な売春地帯は、東京では吉原、大阪では飛田新地などが有名である。 業者は、娼妓たちの名簿を提出し、定期的に性病検査を受けさせる義務を負った。また、公娼になるには、尋常小学校卒業以上の学歴が必要で、親の経済が逼迫していること、親が不動産を持っていないことなどの条件が設けられていた。当時の公娼は、実家の家計を助けるためにやむなく身売りされるケースが多い。前述の条件は、娘を簡単に売らせないために作られたものだったのだろう。 そうして公娼になると、束縛一色の暮らしを余儀なくされた。 公娼は指定された地域以外に住むことはできなかった。また、貸座敷業者の許可なしには外出することもままならなかった。給料の大部分は前借金の返済に充てられるため、経済的な自由もない。

    売春業者と癒着する警察 - 誰かの妄想・はてなブログ版
  • 公娼制度は国家公認の人身売買による奴隷制度:1910年代〜1930年代 - Transnational History

    次のような「慰安婦=公娼=売春婦」論は、従軍慰安婦の問題を否定する論者によってこれまで何度も繰り返されてきました。 日維新の会の平沼赳夫は、旧日軍の従軍慰安婦問題について国の関与を否定した上で「従軍慰安婦と言われている人たちは“戦地売春婦”だと思っている」「昔は公娼(こうしょう)制度があり、戦地売春婦をしていた女性が訴訟を起こしてきた」と述べた(参照:*1)。 当時は公娼制度があり合法化された「売春婦」だ、だから何ら問題はないという認識は、軍慰安所で売春を強制されようが、性暴力を受けようが、何ら問題はないと言っているに等しく、こうした認識はいかにも短絡的で、差別的ではないでしょうか。 さらに言えば、当時すでに内地において公娼制度は当然のものではなく、公然と存在しえなくなっていた事実を無視しています*2。当時すでに公娼制度は、国家公認による人身売買、自由拘束による強制、人権の蹂躙、奴隷制

    公娼制度は国家公認の人身売買による奴隷制度:1910年代〜1930年代 - Transnational History
    dj19
    dj19 2013/07/15
    ブログ更新しました。
  • 大正末期の無名の娼妓の手記と近代公娼制度について | Kousyoublog

    このドメインは お名前.com から取得されました。 お名前.com は GMOインターネットグループ(株) が運営する国内シェアNo.1のドメイン登録サービスです。 ※表示価格は、全て税込です。 ※サービス品質維持のため、一時的に対象となる料金へ一定割合の「サービス維持調整費」を加算させていただきます。 ※1 「国内シェア」は、ICANN(インターネットのドメイン名などの資源を管理する非営利団体)の公表数値をもとに集計。gTLDが集計の対象。 日のドメイン登録業者(レジストラ)(「ICANNがレジストラとして認定した企業」一覧(InterNIC提供)内に「Japan」の記載があるもの)を対象。 レジストラ「GMO Internet Group, Inc. d/b/a Onamae.com」のシェア値を集計。 2023年5月時点の調査。

    dj19
    dj19 2013/06/06
    国家による貧困層の女性を犠牲にした性管理・隔離政策
  • どくしょのじかん Part 2 -その2- - Stiffmuscleの日記

    ■公娼制の認識 わたしたちは、明治以降の日の公娼制の実態や、廃娼運動、それに抵抗する勢力、議会や内閣の各省庁の動きについてよく知らない。学校で詳しく習うこともない。ただ『当時、公娼制は合法だった。』という言葉だけが拡散し、『だからしかたがない』とか『性奴隷ではなく売春婦だった。』とかいうトンデモない妄言が広まっていく。 最近、市川房枝解説『日女性問題資料集成 第一巻 人権』、ドメス出版、1978年を読む機会があったので、そこから得た知識や資料、関連書籍などを参考に、吉見先生、秦先生、西岡先生の公娼制にたいする見方を比較してみた。 市川房枝の解説 思わぬペルーの側の物的証拠をつきつけての反撃*1に、明治政府は一八七二年(明治五年)一〇月、有名な娼妓開放令*2を布告する。俗に牛馬切りほどきといわれたが、津田真道の建白書に出てくる「牛馬」と同じ語が使われているのは偶然の一致か、または影響なの

    どくしょのじかん Part 2 -その2- - Stiffmuscleの日記
    dj19
    dj19 2013/05/08
    西岡力のトンデモ認識
  • 明治39年「娼妓身売り契約」にみる搾取のひどさ - Transnational History

    たまたま見つけたヤフオクに出品されていた明治39(1906)年「娼妓身売り契約書」。どうも読んでいくと搾取がなかなかひどいのでエントリにしてみました。 ☆大坂新町遊廓◎明治39年「娼妓身売り契約書・他」生文書 http://page6.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/f120766294 大坂新町遊廓は、大阪大空襲までは、島原・吉原に並んで栄華を極めていました。この地の遊郭に、700円の借金と引き換えに「八千代」19歳の娘を娼妓として身売りをする証文などの「生」文書です。遊廓を経営していた「T」氏(文書には氏名が明記)に関わる文書です。 ◎契約書:大坂新町「T」氏宛の契約書 ◎承諾書:(1)清國営口永世街二町に「娼妓」としての承諾書。 (2)清國営口永世街二町に「酌婦」としての承諾書。 ◎八千代の身元証明書(大阪市北区区長公印) ◎八千代の戸籍謄写し

    明治39年「娼妓身売り契約」にみる搾取のひどさ - Transnational History
  • 1936年時の内地における娼妓の状況 - 誰かの妄想・はてなブログ版

    新聞記事文庫 婦人問題(4-166) 大阪朝日新聞 1936.12.12(昭和11) - 籠の鳥に与えよ太陽 待遇改善の爆弾示達 月一回の公休、負担の軽減など府が改革案を九遊廓へ - 公娼廃止がやかましく議論されている折柄娼妓と楼主との貸借経済関係を中心にいわゆる「籠の鳥」の生活につき大阪府保安課ではその改善擁護のためさる十月上旬から大阪府下の飛田、松島、新町、堀江、南地五花街、堺竜神、同乳守、貝塚、枚方の九遊廓所轄警察署に大がかりな調査を命じていたところこのほど終了、籠の鳥生活の内情が遺憾なくさらけだされるとともに法規の違反実に百五十件の多数にのぼった 同課ではこれに対する処分方法を考究中であるが、まず娼妓待遇改善が第一であるとして十日前記九遊廓の取諦を府庁に招致、小幡保安課長からこれが改善を命じたうえ十一日さらに各所轄署長をして改善方法の詳細を示達せしめた、これは公娼廃止に対する大阪

    1936年時の内地における娼妓の状況 - 誰かの妄想・はてなブログ版
    dj19
    dj19 2013/03/19
    公娼制度は非人道的な制度であるという当時の大阪府当局の見解。 70年以上経過してこれを正当化する人が多数派ってどんだけ後退してんだか…
  • 報知新聞記事に見る1931年当時の公娼制度に対する見方 - 誰かの妄想・はてなブログ版

    Apemanさんが、 鹿児島県会の廃娼決議が公娼制を「人身売買」「奴隷制度」と非難していたことを梁澄子氏が紹介したところ、会場から「ホォ……」という大きなリアクションが起きた http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20120924/p1 と紹介していましたので、これに類する事例の紹介をば。 1931年4月5日付けの報知新聞に「国際信義と公娼廃止」と題した高島米峰氏の記事があります*1。 日帝国は、最初、この条約(婦人児童の売買禁止に関する条約)に加盟しながら、しかも、二十一歳という年齢の制限について、留保を求めて調印したのであった。それは今でも現に行われて居る、「娼妓取締規則」には、娼妓の年齢が、十八歳以上と規定してあるがためであったことはいうまでもない。しかし、その年齢留保を、文明国としての汚辱であるとして、当時、官民有志の間に、速にこれを撤廃すべしという主張横溢し

    報知新聞記事に見る1931年当時の公娼制度に対する見方 - 誰かの妄想・はてなブログ版
    dj19
    dj19 2012/10/02
    「1931年当時において、売春は当たり前のことではなかったことがわかりますし、条約の趣旨を全く守ろうとしない政府」
  • 植民地朝鮮における公娼制度の確立過程・目次

    植民地朝鮮における公娼制度の確立過程 ―1910年代のソウルを中心に― Web版はハングルを日語に置き換えるなど、完全なものではありません。引用される場合は、公刊された論文をご利用下さい。 註で紹介した文献中斜体で表記したものは、原文タイトルでハングルを使用しています。 文・注(1) はじめに I 「併合」までの買売春管理政策 1. 朝鮮人接客女性の「出現」 2. 朝鮮人接客業に対する管理のはじまり 註 文・注(2) II 「併合」直後の動向 1. 過渡期の管理方針と遊廓の第1次再編 2. 「芸妓」「妓生」の組織化 註 文・注(3) III 植民地公娼制度の確立 1. 新規則の制定 2. 遊廓の第2次再編 3. 接客婦の増加と女性売買構造の「日化」 おわりに 註 (『二十世紀研究』第5号、2004年12月) まい・びぶりおぐらふぃへもどる

    dj19
    dj19 2011/12/21
    藤永壯 ふじなが たけし 、歴史学者、大阪産業大学教授
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