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坂のある非風景 ジジェク・ノート #13
資本主義という言葉が消えたということは「反資本主義」という言葉が消えたということであり、それがど... 資本主義という言葉が消えたということは「反資本主義」という言葉が消えたということであり、それがどういう裏切りに会ったかという歴史を取りだすことが、ただ「反資本主義」という言葉のあった場所を空白として照らしだす光である。失われたものを埋める別のものだけが、失われたものを裏切っている。 そしてその裏切りによって、失われたものが回帰する。自分自身が元の場所に回帰するのではない。他者の中に自分自身が回帰するというだけでは足りない。それは「他者の中に場を持たぬものとしてその他者に回帰する」限りにおいて、みずからに回帰する。 反グローバル主義はどうだろうか。ただの反米である。そこに結集するのは、共産主義的資本主義国家、中国などであり、ある資本主義国家を別の資本主義国家が批判するという図がそこに見える。そこでは、「反資本主義」は継承されていないどころか、裏切られてさえいない。 たしかにかつて中国は、共産