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鎌倉時代はシェイクスピアである――。 そんなこと、いきなり言われても、「わけわからん」と思われるでしょうか? 実は、脚本家・三谷幸喜さんが『鎌倉殿の13人』公式サイトのインタビューで、以下のように語られています(→link)。 シェイクスピアには、おもしろい物語の要素のすべてがある。 和田義盛と三代将軍・実朝。 2人の関係は、『ヘンリー四世』に出てくるフォルスタッフとハル王子に重なります。 三浦義村は『オセロー』に出てくるイアーゴー。 頼家の苦悩は『リチャード二世』に出てくる若き王の哀しみと似ている。 そして頼家の息子の公暁。 彼が置かれた境遇はまさにハムレットそのものです。 ※脚本・三谷幸喜さんインタビューより引用(→link) 「シェイクスピアなんて知らんがな」という方も後述しますのでご安心ください。 実はこの発想は三谷幸喜さんに限ったことではなく、シェイクスピアが日本で知られるように
序盤は純朴な好青年だった。 それが源頼朝の過酷な政治スタンスを目の当たりにするうちに心は灰色になり、父の北条時政を追放した頃には、ついには自身が真っ黒に。 2022年大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の主人公・北条義時の豹変ぶりに、ふと、こんなことを考えたりもしませんか? なぜ義時が主役になったのだろう――。 例えば立身出世という明快なストーリーを望むのであれば、彼は選ばれなかったはず。 ならばNHKの狙いは何なのか?というと、キャッチコピーに現れている気もします。 確かに、鎌倉殿の13人の主人公が発表された時点で、 「えっ?北条義時って???」 と違和感あるいは驚きを抱かれた方も多かったでしょう。 源頼朝や北条政子ならまだしも、二代目執権・義時とは、まさしく予測不能――。 前半生は「何もしない人」と揶揄されるほど影が薄く、表舞台に立ち始める頃には陰謀の渦中にいて、何度も結婚を繰り返す。 英雄と
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』のクライマックスになるとされる【承久の乱】。 後鳥羽上皇の朝廷と、北条義時の幕府が衝突した朝幕対決は、幕府の勝利で幕を閉じます。 これで鎌倉幕府も安泰――とはならず、承久の乱からわずか26年後、今度は鎌倉幕府を二分しかねない大事件が勃発します。 宝治元年(1247年)6月5日、北条と三浦が衝突した【宝治合戦】です。 『鎌倉殿の13人』では、小栗旬さん演じる北条義時と、山本耕史さん演じる三浦義村は、盟友のような間柄。 さすがにこの両家は安泰では? 北条は確かに討幕まで存続するものの、三浦は違います。 北条泰時の孫・時頼と、頼朝の側近であった安達盛長の子・安達景盛が、三浦義村の子・泰村や光村らを排除する事件が起きてしまうのです。 凄惨極まりない結末を迎え、三浦一族が自害を遂げたあとは今も鎌倉にひっそりと残されています。 三浦義村はドラマの演出で賢いわけではありません
せがれの音之進はいずれ 指揮官になっち 決まっちょります 指揮官には大勢の若い命を預かる責任があっど せがれには我から進んで困難に立ち向い ふさわしい男になっくんやせ 鯉登平二(『ゴールデンカムイ』第139話より) ※この記事はネタバレを含んでおりますので単行本20巻読了の方のみ、読み進めてください。 『ゴールデンカムイ20巻』は、前を見据えて進む杉元が表紙です。 彼が進みゆく道に待っている冒険の結末は、どうなるのか? それはこの先を読み進めねばわかりませんが、金塊争奪戦以外の未来はわかります。 現実に起きたことを見直せば、見えてくるのです。 彼らの過去、そして未来について、区切りとなるこの機会に考えてみましょう。 【TOP画像】ゴールデンカムイ20巻(→amazon)
大河ドラマ『青天を衝け』で衝撃的なシーンがありました。 主人公である渋沢栄一と出会った伊藤博文が、若い頃のヤンチャ自慢をするように【英国公使館焼き討ち】の話を始めたのです。 焼き討ちとは、現代でいえば「テロ活動」。 という姿勢で、通常の感覚なら褒められたものではありません。 それが無反省の態度でどうしたことか……。 実は史実に注目しても、若い頃の渋沢栄一と伊藤博文は尊王攘夷の【テロ同志】と言えます。 かたや資本主義の父と呼ばれ。 かたや日本初の総理大臣であり。 お札の顔にまでなる二人の信じられない話かもしれませんが、実際に記録が残っているのだから仕方ありません。 では一体、二人はどんなテロ活動をしてきたのか? ドラマでも栄一と博文が意気投合していた怖い理由を見て参りましょう。
誠実な人柄で武芸は達者。 おまけに見た目は超イケメンで、しかも智勇兼ね備えている――。 大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で中川大志さんが演じていた畠山重忠があまりにカッコイイ! 完璧じゃないか! と思うのは我々だけでなく、昔から「坂東武士の鑑(かがみ)」と称される程の人気ぶりでした。 では一体、坂東武士の鑑とは、どんな武士のことを指すのか? これが意外と難儀な問題で……考察しましたので、ご一緒に振り返ってみましょう。 坂東武士の理想とは?そもそも坂東武士の理想とは? 弓馬に優れ、主君との契りも厚く――なんて想像しがちですが、実は結構定義が難しい問題だったりします。 なぜか? 国語や歴史の授業を思い出してみてください。 『源氏物語』にせよ、『枕草子』にせよ。 中世日本人の精神性として習うのは京都王朝周辺となりがちです。 では坂東武士は? というと、当時の彼等は、自分たちの思いをスラスラと記すこと
『徳川慶喜公伝』という書物をご存知でしょうか? 文字通り15代将軍・徳川慶喜の生涯を描いたもので、著者は他ならぬ渋沢栄一。 大河ドラマ『青天を衝け』でも同書の内容をベースにしているようで、主人公の栄一が書いたんだったら間違いない! これは傑作だ! とはならないのが歴史コンテンツの宿命でして。 自己申告の武勇伝ほどアテにならないことは皆さん肌感覚でご理解いただけるでしょう。 「好き勝手改ざんできる」とまでは申しませんが、文才さえあれば、いくらでも都合よく自分たちの経歴事績をキレイに見せられます。 ウソはついてない――されど読み方によっては意図的に誤解させられる――そんな書物って信用できませんよね? 残念ながら『徳川慶喜公伝』もまた疑わしき書籍だったりするのです。 これは何も私だけが言っていることではなく、同書は刊行直後から「フザけた内容だ!」として元幕臣や佐幕派の武士らを中心に激しいクレーム
島津四兄弟をご存知でしょうか? 戦国期の島津家当主だった島津貴久。 その貴久から生まれた男兄弟4人のことで、上から
『鬼滅の刃』の「遊郭編」が地上波へ――。 当初、宇髄天元によって「ド派手に行くぜ!」という告知が公開されると、たちまちネットは大騒ぎになりました。 「遊郭を子供にどう説明すればいいんだ?」 そんなストレートな疑問が飛び交っていたかと思ったら、いつしか話は曲解されて 「遊郭はセーフティネットみたいなもんだった」 なんてトンデモ論まで出てくる始末。 一体これはどういうことだ……と軽く驚きつつ、辿り着いた結論がこれです。 【みなさん、遊郭の知識が曖昧なのではなかろうか?】 江戸には吉原という一画があって、そこでは遊女が客を取る。 彼女たちの中には花魁というアイドル的存在もいて、大名や商家などの有力者しか相手にしなかったような……。 と、それぐらいのことは何となく知っていても、実際にどんな場所だったか?という生々しい話となると、答えられる方は少ないでしょう。 そこで本稿ではリアルな遊郭事情を振り返
諏訪氏の母を持つ武田勝頼武田勝頼の生年は、天文15年(1546年)。 同年生まれには黒田官兵衛孝高や最上義光がおり、ほぼ同期となるのが真田昌幸(1歳下)や、徳川家康(4歳上)あたりまで含められましょうか。 この世代の武将たちは1600年「関ヶ原の戦い」において、人生経験と体力をフルに発揮できた時期に当たります。 そう考えると、勝頼の生涯がいかに短かったか……。 父・信玄にとって勝頼は四男でした。 母は正室・三条夫人ではなく、諏訪氏(法名・乾福寺殿)の娘。本稿では法名表記の「乾福寺殿」とします。 フィクションで有名になった「湖衣姫」や「由布姫」はいずれも創作の産物であり、実名は不明です。 確かに地元の行事等ではこうした名前が用いられたりしますが、史実ではありません。 ではなぜ、フィクションで彼女が取り上げられやすいのか? というと、その生涯が劇的であったからでしょう。 武田信玄は、妹・彌々(
様々なやんちゃ行為のおかげで、最強のネタ系戦国大名としてお馴染みの伊達政宗さん。 とりわけ政宗の手紙は飛び抜けてお茶目で面白い! そんな評判であるのをご存知でしょうか。 政宗の場合、好条件が揃っており、ありのままに感情が炸裂した手紙が現代まで多数残っております。 その好条件とは、 ・祐筆をあまり使わず、自筆で書状を書いていた ・筆まめ ・伊達家が改易されておらず、家臣たちが「藩祖」の書として家宝扱いにした ・彼自身の知名度が高いため、発見されやすい 例えば政宗にとって伯父にあたる最上義光の場合、最上家が改易され、知名度が下がったために未発見のものが多いです。これは近年の研究で改善されつつあります。 しかし政宗については今なお、ちょいちょい発見されています。 2020年にはもこんな記事が掲載されておりました。
武士とは、平安後期に生まれた新しい身分です。 初期の頃は貴族に都合よく使われたり、地方の親分として粗暴な振る舞いをしたり。 ぶっちゃけ「野蛮」な存在であり、鎌倉時代初期(特に承久の乱)のあたりまでは文字を読めないのもフツーという文化レベルでした。
財政再建の名君と称され、TVや書籍でも度々注目される上杉鷹山。 寛延4年(1751年)7月20日はその誕生日で、彼は、あの謙信公が引き継いだ「上杉家→米沢藩」の九代藩主でありますが、そこでちょっと気になりません? 「そもそも米沢藩って、なぜそんなに財政がガタガタだったの?」 以下の記事に理由が記されており、
漫画『ゴールデンカムイ』で重要な役割を果たすアイヌ人のキロランケ(表紙は第七巻)。 彼はかつて第七師団に所属し、日露戦争を戦った経歴の持ち主でした。 と、そこで一つ疑問は湧いてきませんでしたか。 当時のアイヌは、誰しも戦地へ向かった? そうでなければ、キロランケ以外にも、戦地へ向かうアイヌはいた? もちろん実際に戦場へ出向いたアイヌ人は少なくありません。 明治間もない戸籍法(1871年~)で日本人に組み込まれ、戦地へも駆り出された彼らの、勇敢な行動はたびたび讃えられたりもしました。 しかしそこには、結局は「勇敢なアイヌもいる」という差別の扱いもあったのです。 何をしようにも不当な圧力のもとで虐げられがちなアイヌの兵士たち。 本稿では、戦前の日本軍における彼等の活躍を見ていきたいと思います。 注:本稿には、現代では差別的とされる表現が数カ所出てきます。当時の世相を正しく表現するため、敢えてそ
2017年大河ドラマ『おんな城主 直虎』において、徳川家康と井伊万千代(のちの井伊直政)の同性愛関係(男色)が取り上げられました。 菅田将暉さん演じる万千代が「多くの武士が色小姓となったことをキッカケにのし上がった」と自らを励まし、阿部サダヲ家康の寝所へ向かったのです。 あるいは2022年『鎌倉殿の13人』では、源実朝が北条泰時に対して恋心を抱いており、歴史に免疫のないお父さんやお母さんには 『このシーンは突然何なんだ?』 と困惑されたかもしれません。 ※いずれもドラマでは未遂で終了し、史実ではそう囁かれたりもする 一方、戦国ファンや歴史ファンならば納得の場面だったかもしれません。 織田信長にせよ武田信玄にせよ。 その手の話は尽きないものであり、多くの書籍やフィクション作品でも描かれたりもしています。 そうなると俄然大きくなるのが
「民が腹いっぱい食えるよう! 民のため!」 2018年の大河ドラマ『西郷どん』の西郷隆盛は、常に庶民のことを第一に考える【現代的人格者】の姿で描れておりました。 そのクライマックスは明治10年(1877年)。 9月24日に終わったいわゆる西南戦争です。 しかし、その現実、さすがにドラマのように甘いものではありません。 なにせ規模の大きな内戦です。 戦場ではバラバラになった肉体や死体が散乱し、疫病も蔓延。それを官軍兵士が日本各地へ持ち帰って全国規模で流行する――国内でパンデミックの様相まで呈したほどです。 ドラマでこそ現代的な人格者として描かれてきた西郷ですが、史実では好戦的な性格でも知られており、西南戦争もリアルで見ると悲惨極まる戦いでしかありません。 多くの「民」も巻き込まれ、犠牲になりました。「腹いっぱい食える」どころか、巻き込まれて死んでいったのです。 本日は、西郷という英雄を今一度
長い日本史において今なお最大のミステリーとされる【本能寺の変】。 天正10年(1582年)6月2日に起きました。 変の首謀者は言うまでもなく明智光秀です。 まず事件の全貌は以下の通り。 毛利氏との全面対決を意図した織田信長が、光秀に豊臣秀吉への加勢を命じ、これに応じた明智軍13,000が6月1日夜に丹波亀山城を出発。 進路を突如京都の中心地へと変え、6月2日未明、ほとんど守備兵のいない本能寺に襲いかかった。 衆寡敵せずして、織田信長は敗死。 しかし、その後、遺体は見つからず生存説も流れるほどで、おそらくや燃え盛る炎の中で灰燼に帰したのであろう。 天下統一を目前にしてのこの悲劇――。 と、我々現代人の心を掴んで離しませんが、この事件が今なお注目度が高いのは、やはりこの問題が解決されないからではないでしょうか。 【なぜ、明智光秀は織田信長を襲ったのか?】 何十年も論争されていながら、その答えは
大河ドラマ『麒麟がくる』で、吉田鋼太郎さんの演じる松永久秀が、戦国ファンのみならずお茶の間でも話題になりました。 梟雄イメージじゃない! それどころか非常に思慮深くて外交力、政治力も有している。 そして織田信長とぶつかった後の死に様が圧巻だった――。 信長と久秀、二人の関係性は非常に複雑かつ印象的ですから『麒麟がくる』でも大きな見どころでした。 史実における松永久秀の実像も、最近の研究で変わりつつあります。 気品。 知性。 そしてワイルドさ。 歴史の歯車が一つ変わっていればイケメン智将で描かれてもおかしくなかったのではないか? と、そう思わされるのです。 本稿では、天正5年(1577年)10月10日に亡くなった、松永弾正久秀の生涯を史実ベースで振り返ってみます。
多くの人々が飢え苦しみ、骸骨のように痩せ衰えて、死にゆく飢饉。 江戸時代にたびたび起こったこの惨劇、人肉すら喰らうような状態だったと初めて知ったとき、恐怖を覚えました。 冷害や悪天候とは恐ろしいものだなあ、としみじみ思ったものです。 しかし、本当に飢饉とは「天災」なのでしょうか。 江戸時代の飢饉においても、藩によって対応がまるで異なりました。 米を貯蔵した蔵を開き、餓死者を一人も出さなかった藩もあるかと思えば、天下の米所と言われながらパニックに陥り、他の藩にまで救いを求めて顰蹙を買った藩もあります。 飢饉とは「人災」の要素もあるのではないでしょうか。 いくら穀物が収穫されようが、支配者がそれを取り上げてしまったらば、飢饉は発生します。 その最悪の例が、英国領インドの飢饉でした。 ※以下は「天明の大飢饉・享保の大飢饉」関連記事となります
日本史に限らず世界史でも、大部分の時代には身分制度が存在します。 皇室や王族などの君主層。 それを支えたり利用したり下克上したりする貴族層。 そしてほとんどの割合となる庶民層。 そういった中で最も人気があるのは、武士や騎士など、武力を持った層でしょう。 実際、日本史では戦国時代が人気No.1ですし、それ以前の時代が舞台だった大河ドラマ『鎌倉殿の13人』も、かなり盛り上がりましたよね。 そこで本稿では、日本史には欠かせない武士の起源・成り立ちについての諸説を整理してみたいと思います。
大河のよいところは、こういう史実に注目が集まるところではあります。 過去には、実在が怪しまれていた武田信玄の家臣・山本勘助が、大河ドラマを機に新たな書状が見つかり、『やっぱり存在していたんだな』という見方が強まるニュースもありました。 それじゃ本編にいってみよかーい。 【TOP画像】 『西郷どん完全版第壱集Blu-ray』(→amazon) 【20秒あらすじ】ダラダラ西南戦争本当に暗殺するつもりだったのか。 大雪の中、東京まで問いかけに行くと言い出す西郷どん。いくらなんでも大げさやろ。 こうして西南戦争がサクサクと開戦。 もう西郷どんが大人げないせいで最悪の展開に、としか言いようがない。 菊次郎が負傷。 小兵衛は戦死(誰だっけ?) 桂久武がやって来ます(誰や!)。 あと二回なのに、モブだらけの西南戦争って何やねん! 西郷どんが追い詰められていく過程が、こんなにも清々しいとは……このドラマも
「まるでミステリーのような興奮をさせられる!」 そんな歴史本があると知人にオススメされたらどう思います? 一瞬、身構えてしまいません? 歴史関連でその手の書物と言えば、どこか眉唾。大半は【トンデモ本】と紙一重というのが相場です。しかし……。 歴史学関連の友人が熱く語っているとなれば話は別で。 「あれはヤバイやつや……ラストまで読み切った時の、謎の爽快感……」 思わず手にとってしまった一冊がこちらです。 その名も『武士の起源を解きあかす──混血する古代、創発される中世(→amazon)』という新書。 歴史界隈の研究者が太鼓判を押していることもあり、これは読まねばならないッ! と、妙な使命感を抱えながら、その一冊を手にしたのでした。
シェイクスピアってなんか難しそう……って、イメージ、お持ちです? いえいえ、そんなことはありませんよ! とても面白い! だからこそ愛されるわけで、イギリスの俳優にとってシェイクスピア劇を演じるのは修行であり、良き経験であり、ステータス。 彼らのファンであれば「シェイクスピア劇も、見なくちゃ!」という法則が成立します。 ベネ様ぁ! しかし、こういう女性視聴者は、ときに小馬鹿にされがちです。 「シェイクスピアの真髄なんてわからなくて、イケメンが見たいだけでしょ」 いえいえ、昔から彼女らだって役割があった――そう問いかけてくるのが、本書 『シェイクスピア劇を楽しんだ女性たち:近世の観劇と読書(→amazon)』 の筆者でありシェイクスピアを研究しておられる北村紗衣氏です。 彼女も、実は昔、レオナルド・ディカプリオ主演の『ロミオ+ジュリエット』がきっかけでシェイクスピアに興味を抱き、この道に進んだ
何かを調べていて 「こうならなくてよかった……」 と思うこと、ありますよね。 今回注目するのがまさにそれ。 1945年(昭和二十年)11月1日は、第二次世界大戦の連合軍による「ダウンフォール作戦」の開始予定日でした。 詳細を知れば知るほど、「この日、歴史が動かなくてよかった」と思わざるを得ない作戦です。 実際に起きていないのでグロテスクな話は少ないのですが、想像力が豊かすぎる方はお読みにならないほうがいいかもしれません……。 よろしいでしょうか? オリンピック作戦とコロネット作戦この作戦を一言でまとめると、 「連合軍による日本の壊滅」 です。 もう一度いいます。 「壊滅」です。 実に末恐ろしい言葉ですが、その内容は九州へ上陸する「オリンピック作戦」と、それが成功してから関東の湘南海岸および九十九里浜から上陸する「コロネット作戦」の二本柱で構成されていました。 開始予定は、 ◆オリンピック作
ということになりました。 しかし、皆さんよくご存知のように、本当に身分制度がなくなったのはずっと後の話です。 明治時代は、大きく分けて華族・士族・平民となっており……。 今回は明治2年(1869年)6月17日に制定され、良くも悪くも特権を持っていた【華族制度(公侯伯子男)】について見ていきましょう。 もともとは清華家の別称だった「華族」華族は元来、公家の中の「清華家」と呼ばれる家々の別称でした。 これは、平安時代に栄華を誇った藤原氏の子孫である「摂家(五摂家)」の次にエライ家柄とされたもので、7家ありました(後に9家 記事末※注1)。 そうした由緒正しい公家と、大政奉還~廃藩置県の流れで(一応)特権階級の地位を離れることになった元大名たち=武家を合わせたのが明治~昭和前半の「華族」となります。 ※以下は大政奉還や廃藩置県等の関連記事となります
煙をモクモクあげながら、接近してくる黒船――。 蒸気船には強力な大砲が備わっていて、強引に開国を迫るペリーら外国人たちは非常に威圧的な印象を受けます。 が、実のところ、彼らも日本側に対して、相当気を遣っていました。 例えばペリーは幕臣相手に酒や料理をふるまい、ハグまでしております。 ペリーのあとに来日した外国人たちも、人種差別感情や高圧的な態度だけを抱いていたわけではありません。 彼らは襲撃に怯えつつ、日本人の価値観を探り、余計な刺激をしないように生活せざるを得なかったのです。 天真爛漫な人々が暮らす、清潔なワンダーランド。 日本人の庶民がそう評価される一方で、彼らは危険極まりない存在も同時に畏怖しておりました。 そうです、SAMURAIです。 【殺すと決めたら必ず実行にうつし、その襲撃を防ぐことは不可能に近い――シゲキ、スルナ――】 外国人が「SAMURAI(サムライ)!」なんて騒いでい
明治2年(1869年)11月4日は会津藩主・松平容保の長男である松平容大の相続が決まり、陸奥国にて3万石の地を領することになった日。 会津の地を去り【斗南藩(となみはん)】として再出発を図るのですが、これが地獄の始まりでした。 もともと会津藩は28万石。 それに対し、新天地の斗南藩は平地が少なく、3万石どころか実質7千石ともされ、当然ながら藩士全員を連れていくことなど叶わず、そのまま会津に残ったり、あるいは北海道へ渡ったりする者など、散り散りにさせられます。 いわば明治新政府からの厳しい仕打ち=流刑であり、それでも彼らはなんとか生を繋いでゆきました。 では、いったい斗南藩とはどのような場所や暮らしぶりだったのか? 振り返ってみましょう。
忠犬、伊勢を目指すその犬は、首に木札をつけ、路銀もぐるっと巻いていました。 人々はびっくり仰天と同時に感心し、お金を奪ったりはいたしません。 「おおっ、あの犬はお伊勢参りだ!」 「てえしたもんだよ、えらい犬じゃあねえか」 「ありがてえ。ありがてえなぁ……こんな犬を見るなんてありがてえことだよ」 中には犬を呼び寄せ、首の周りに銭を与えてやる者もいます。 犬はそうしてトコトコと、伊勢参拝の人にくっついて適当な宿まで行きます。 宿の者も、犬を迎えてやります。 迎えた人は、首から餌代を取り、犬に餌を与え、また心付けの銭を巻いてやるのです。 時には首に巻く銭が、ずっしりと重たくなることも。そうすると、親切な誰かが銀に替えてやることもありました。 「そうして、何年も掛けて往復する犬が、江戸時代にはいたんですね!」 「それはたいした犬だ、現代ならばネットニュースでバズっちゃう、奇跡の忠犬レベルでしょ」
西郷隆盛と言えば、鷹揚にして些事にこだわらず、ともすれば平和的な人物に見えます。 しかし、それはあくまでピースフルな「上野の西郷さん」のイメージ。 史実においては武力倒幕を進めたのが西郷本人であり、かなり好戦的な性格の方でした。 岩倉具視や、他ならぬ薩摩藩でも内戦を回避した倒幕を模索していたのに、強引に推し進めたのは他ならぬ西郷だったのです(以下はその関連記事となります)。
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