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雑学
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ラクタンティウス『神的教理』V.16=キケロ『国家について』III.21, 29-31 Ziegler(部分)=III.15-16 Powell(部分) [1] どうして哲学者たちは正義を見出すことも弁護することもできなかったのか、その理由を私は説明した。今は、もともと論じようとしていた話題に戻るとしよう。 [2] カルネアデスは、哲学者らの主張していたことが根拠の弱いものなので、それを論駁できるものとみなして、大胆にもその論駁を試みたのである。 [3] 彼の議論の要点は、以下のものであった。「人々が法を制定したのは、自らの利益のためである。法は慣習に応じて様々であり、同じ人々のところでも時に応じてしばしば変化するのであって、自然法など存在しない。人間も他の動物もすべて、自然の導きによって、自らの利益へと動かされる。それゆえ、正義など存在しないか、仮に存在するとしても、それは最高の愚鈍であ
こちらで全文が読めるブックレットから。 高田 実は駒場にそういうものがないという非常に衝撃的な事実が存在します。たしかにギリシア古代哲学の研究者はいらっしゃいますが、総合的古典学の講座がない。これはもう決定的な落ち度であると言わざるをえません。本郷にはありますが、しかし、その古典研究というのは必ずしも総合的ではありませんし、近代と切れた形において行われています。異教の古典古代を研究していて、日本の現代とはもちろん関係がない。テクストの伝播における技術的な問題を措くならば、西洋世界という歴史的構築物となるべく関わらない態度をとる。西洋の中世とも関係がない。ルネサンスとは少し関係あるかもしれませんが、近代ヨーロッパという問題にも関わろうとしない。そういう古典です。これはおそらく西洋では不可能な、非常に特異な例だろうと思います。(57-58頁) 大貫 文献学という場合に、私のイメージするのは聖書
『大航海』No.61「特集 中世哲学復興」(新書館、2007) ようやく入手してざっと一読。いつまでもこんな情けないことを言っていてはいけないのだろうが、「普遍論争」というものについては、いまだよくわからずじまい。とはいえ、違う執筆者が違うことを言っていたり似たようなことを言っていたりしているところが素人目には面白かったので、長すぎるかもしれないが個人的な備忘録代わりに引用しておきたい。 まずは対立(?)から。 私は一方でオッカムの認識理論は単純に中世哲学という枠組のなかでトマスと比較できないほど根元的に新しいものであること、他方それは近世哲学の認識理論(ロック、ヒューム、カントをふくむ)と密接な連続性を有するものであって、こと認識理論に関するかぎり、決定的な時代区分の線は十七世紀ではなく、十四世紀前半のどこかで引かれたことを確信した。(稲垣良典「普遍論争再考」、42頁) さらに付言すれば
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