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八紘一宇碑と千住大橋
千住大橋の南側にひときわ大きな石碑が残されている。 「八紘一宇」の碑。同様の石碑の多くは戦後に撤去... 千住大橋の南側にひときわ大きな石碑が残されている。 「八紘一宇」の碑。同様の石碑の多くは戦後に撤去されてしまったが、交通の往来激しい千住大橋脇の石碑は、経緯は不詳であるが撤去されずに今日まで残されていた。歴史的経緯として貴重な石碑。 八紘一宇(はっこういちう) 日本書紀巻第三 神武天皇即位前紀己未年三月丁卯条の「令」 上則答乾霊授国之徳、下則弘皇孫養正之心。然後、兼六合以開都、掩八紘而為宇、不亦可乎 上は則ち乾霊の国を授けたまいし徳に答え、下は則ち皇孫の正を養うの心を弘め、然る後、六合を兼ねて以て都を開き、八紘を掩いて宇と為さん事、亦可からずや。 もともとは日本書紀の記述「掩八紘而為宇」を略した「八紘為宇」であった。その意味は「八紘(あめのした)をおおひて宇(いえ)となす」、すなわち「天下を一つの家のようにすること」の意であった。 昭和15年8月に、第二次近衛内閣(近衛文麿)が基本国策要綱