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聖書を眼鏡として原発問題を読む - 苫小牧福音教会 水草牧師のメモ
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聖書を眼鏡として原発問題を読む - 苫小牧福音教会 水草牧師のメモ
はじめに 筆者が原子力発電の問題性について考えるようになったのは、1986年チェルノブイリ原発事故があ... はじめに 筆者が原子力発電の問題性について考えるようになったのは、1986年チェルノブイリ原発事故があった後、高木仁三郎氏の著書を読んだのが最初です。ですが、具体的な問題としてこれをとらえるようになったのは、2001年、2年に東海大地震との関連で中電浜岡原発の危険性を知るようになってからのことです。地震が迫っていることと、原発の危うさを学ぶようになって、筆者は運転差し止めのための署名運動に加わって、同盟教団の中でもその協力を求めました。 「眼鏡」として用いる旧約聖書創世記の枠組みは、2003年に母校東京基督神学校で、2006年に神戸神学館で行った集中講義「神・人・世界・歴史」で話したことです。 http://church.ne.jp/koumi_christ/shosai/soseki.pdf 全国の多くの反対運動の警告にもかかわらず、2007年中越沖地震による柏崎刈羽原発事故という警告に