サクサク読めて、アプリ限定の機能も多数!
トップへ戻る
TGS2024
masuda.way-nifty.com
■ある記号の集積を「(価値のある)コンテンツ」=何らかの動かし難い「内容」として捉えるか、あるいは誰かからの道具的な「メッセージ」と捉えるか(コミュニケーション)は、その受容者の認識に依存する。 ■そのような個々の認識は、社会的な構造によって形作られるいっぽう、個人的な偏差も当然生じるだろう。 ■個人的な偏差をならしても、「誰もが『価値ある』と考える」ようなコンテンツは存在しない(今の福永祐一に必要なのは『言葉と物』ではまったくなく、秋にラインクラフトとシーザリオのどちらを選ぶべきか、についての判断であろう)。 ■そうなると、コンテンツとコミュニケーションの「客観的」区分は、資本主義社会の元では「その記号系がカネに変換できる契機がどれだけ存在するか」という局面に求められ「がち」になる(それで決定される、ということではない。誰かが言った一言が、重要な「(価値のある)コンテンツ」として機能する
『音楽未来形』が出て一ヶ月あまり。書評も出そろってきたので(まだまだ歓迎ですけど。引き続き右のサイドバーに追記していきます)、ちょっとここいらで中間総括しておく。 この本の企画が最初に持ち上がったのは2003年の2月頃だったと思われる(谷口くんの証言によれば)。「レコード以降の音楽メディア史」を手軽に振り返る本がないために、DJカルチャーや著作権問題などを研究し発表する際、要らぬ誤解や勘違いで議論が錯綜してしまい、不毛な音楽観論争に陥ってしまうことにわれわれはほとほとうんざりしていたのであった。そこで、『レコードの美学』以降の音楽作品概念を整理する概説書、というコンセプトを谷口くんと話しているうちに盛り上がり、本にすることに決める。その手始めとしてまず共著論文の執筆を開始し(5章の元になった「録音・複製テクノロジーと音楽聴取体験の多層化」)、同時に知り合いの編集さんのツテをたどって出版企画
気温の変化に並はずれて敏感な男がいた。摂氏0.01度の違いを彼は感じ取り、その違いに応じて頻繁に着る物を着替えるのが常だった。彼は自身の気温感覚をいっそう鋭敏にすることに余念がない。よく知らないのだが、その種の独特の訓練法があるらしい。彼は気温感覚の錬磨を目指すサークルに所属し、日々その感覚に磨きをかけていた(聞くところによると、国際的な賞も存在するらしい)。周囲の友人たちはそんな彼を奇妙に思いながらも、その感覚の鋭敏さには一定の敬意を払ってはいた。 「この一分間の最高気温は8.82度だ。二分前よりも0.46度も下がってる。着替えなきゃ」と彼はいそいそと手袋を取り替え、靴下を取り替える。「なんで着替えないんだ?こんなに気温が下がってるのに。寒くないのか?」彼は私に言う。「いや、平気だ。僕は鈍感なんだ」私は言う。「そうか。鈍感なんだね」彼は着替えるのに忙しい。私は少しむっとしたが、黙っておい
「嗚呼、失敗だ」 「また人を換えるのか」 「もちろん。ただ『絆』は残しておく。そういう仕業が可能な時代なのだ今は」 映画館を(郊外型の快適なシネマコンプレックスをそう呼んでもよいのだろうか。高名な映画学者からの返答はまだない)出てから初めて気づいたことだが、すり寄る人というものは歴史をなぞり、成功例をなぞり、速度をなぞり、そしてまたアウラというか、よく理解できないがありがたい「感じ」のするものをなぞるのだが、空間や失敗例、根付くことや中途半端さを蔑視することを理の当然とする程にはナイーブではないように思う(しかと確かめたわけではない)。かくして二項対立により組み上げられた時代は静かに、誰にも気づかれることなく終わっていった。それが対立であったのかさえ忘れてしまってもよい。名を売ること、それが倫理と呼ばれる時代もあるのだろう。是認はすまい、か。「わかっているけど」「その気持ちはわかる」「理解
このページを最初にブックマークしてみませんか?
『masuda.way-nifty.com』の新着エントリーを見る
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く