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TGS2024
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明治天皇御誕生の1852年(嘉永5年)から1912年(明治45年)までの出来事・事物起源・話題や衣食住の生活様式の変遷などをまとめた年表です。 明治は、日本人のなかに能力主義が復活した時代であった。 能力主義という、この狩猟民族だけに必要な価値判定の基準は、日本人の遠祖が騎馬民族であったかどうかはべつにせよ、農耕主体のながい伝統のなかで眠らされてきた。 途中、戦国の百年というのが、この遺伝体質をめざめさせた。 そのなかでも極端に能力主義をとったのが織田軍団であり、その点の感覚のにぶい国々を征服した。 能力主義の挫折は織田信長自身が自分の最期をもって証明したが、しかしかれがやった事業は、秀吉や光秀たちの能力伝説によって江戸期も語りつがれた。 能力主義を大勢として否定した時代で、否定することによって封建制というのものは保たれ、日本人たちはふたたび農耕型の精神と生活にもどった。 それが三百年近
1894年(明治27年)7月25日、日清戦争開戦時に東郷平八郎艦長の指揮する巡洋艦浪速がイギリス商船高陞号を撃沈する事件が起こりました。(高陞号事件) 午前十時、済遠をさがしていた浪速は、べつの目標を発見した。大型汽船であった。 マストに英国旗をかかげているが、眼鏡でとらえたところでは清国陸軍の将兵を満載していることがわかった。 「ただちにとまれ。ただちに投錨せよ」 と、浪速は信号をあげた。 浪速からボートが出、士官が派遣された。その報告によると、この英国汽船「高陞号」は清国が陸兵輸送のためロンドンのジャーデン・マジソン・コンパニーからやとい入れたもので、現在、陸兵千百人、大砲十四門とつみ、牙山に上陸させようとしているという。 浪速の艦長は、大佐東郷平八郎であった。 かれは英国船長に対し、 「その船をすてよ」 と信号で命じた。 ところが、高陞号の船内は騒然としており清国兵は船長以下をおどし
明治時代の出来事を写真や文献を交えて、「今日は何の日?」という形でご紹介します。「鼻輪を通さぬ離れ牛」と呼ばれた高杉晋作 1862年(文久2年)11月13日、神奈川に於て高杉晋作、志道聞多(後の井上馨)等の尊皇攘夷党の志士が、外国公使の襲撃を企てました。 この日、神奈川の下田屋旅館に勢揃いしたのは、高杉晋作、志道聞多の外に品川弥二郎、久坂玄瑞、山尾庸三、寺島忠三郎等といった血気盛んな同志ばかりで、○○国の公使が金沢へ遊覧に出かけるのを知って、その途中を襲いかかり、攘夷実行の旗挙げをしようと相談一決したのでした。
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