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自炊のコツ
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久しぶりにライトノベルのインターフェイスについて少し書いてみる。 ライトノベルは改行の頻度が高い。作品によっては1〜2文程度で改行を挟むことが多い。その改行頻度の高さによってひとつのパラグラフが非常にスリムなものとなる。そのため、文章をパッとみて理解しやすくなる状況を成立させ、その文章が自分にとって興味のある箇所かどうかを判断しやすくする。つまり、読み飛ばしの判断をしやすくなる。それをぼくは文章の検索性能と呼び、以下のエントリで追いかけていた。 ライトノベルのインターフェイスについての思いつき - hybrid issue(s) ライトノベルのインターフェイスについての思いつき その2 - hybrid issue(s) ライトノベルのインターフェイスについての思いつき その3 - hybrid issue(s) ここではそれをもう少し詳細に追ってみよう。ライトノベルのインターフェイスに、
extrameganeさんが論理兵站 - ファック文芸部にて文芸創作のビジョンと題して近頃いろいろと書いている。ぼくはそのすべてを追いかけているわけではないのだけれど、twitterで次のように漏らした。 extrameganeさんのあれは、extrameganeさんにとっての UR だと思ってる http://twitter.com/foxintheforest/status/2053864236 それに対して、extrameganeさんから「どのようにUnderground Resistance的なのかを書いて欲しい」とtwitter上で要請があったので少しばかり記述してみる。 結論を先に書いておこう。URのMad Mikeはテクノに希望を託している。そしてestrameganeさんはパブリッシングの未来を探している。そこにぼくは共通項を見出したということになる。以下、もう少し具体的に
1.はじめに 本稿は以下のエントリの派生として記述されたものとなる。なお、以下のエントリは読まなくても本エントリでの考察の流れを追うことは充分に可能であることを予め記しておく。 涼宮ハルヒという名の物語の永続システム まず、上記のエントリについて簡単に説明をしておこう。ここでは2つの視点が混在している。話の流れはそのうちの1つ--涼宮ハルヒというヒロインには物語を永続させる機能があるという点--について分岐していって結ばれており、枝分かれした残り1つの議題--なぜ「ある日突然現れた女の子と◯◯し始める物語」が最近多く見られるのか--については放ったらかしになっていた。というわけで残りの部分についての考えをまとめてみたい。その過程では、いくつかの作品の設定を参照しながら紐解いていくことになる。ネタバレを気にされる方は気をつけて頂きたい。 繰り返しになるが、そもそもの発端は、なぜ"ある日突然現
twitterからの転載。発端はカトゆーさんの以下のポストから。 「ある日突然現れた女の子と○○し始めるアニメ」最近多すぎ、って話はJPOPは王道のコード進行多用しすぎ、に近いものがあるように感じる。 http://twitter.com/katoyuu/statuses/963665073 これを見たぼくの反応は次の通り。 @katoyuu アニメだけじゃなくてラノベもそうですよね。女の子が主人公のところに非日常を持ってくるようなスタイルと言い換えてもいいかもしれません。マレビト的な存在 http://twitter.com/foxintheforest/statuses/963676940 ヒロインと非日常をセットにすると、物語を動かしやすいってのはあるのかも。日常を非日常にするって意味でも、平凡な生活に恋愛関係を持ち込むという意味でも http://twitter.com/foxin
1.物語消費論とデータベース消費の切断線 2001年、2002年、2007年、2008年の4回に渡っておこなわれた大塚英志氏と東浩紀氏の対談集。2008年のものだけ語りおろしで、それ以外は既にそれぞれ異なる媒体で発表されていたものが収録されている。こうして1冊にまとめられることで、両氏の見解を共時的に見ることもできれば、通時的に見通すこともできるようになっている。 内容は、東氏本人もブログで書かれていたとおり、大塚氏の苛立ちがかなり際立っている。そしてこの苛立ちが何に向けられているのかというと、東氏による"データベース消費"と自身の『物語消費論』の関係性についてである。 東氏はあとがきで、『動物化するポストモダン』と『ゲーム的リアリズムの誕生』は大塚氏の考察をコンテンポラリーな文脈で捉えたものだと書いている。ただし、大塚氏からすれば、そこには切り落とされてしまった文脈があるという。 大塚:
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