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私利私欲を度外視した公共的理性が、唯一無二の生命を犠牲にする(松尾 匡)
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私利私欲を度外視した公共的理性が、唯一無二の生命を犠牲にする(松尾 匡)
どのような生命体に権利を認めるか ところで相模原事件の植松死刑囚は、言うところの「意思疎通のとれな... どのような生命体に権利を認めるか ところで相模原事件の植松死刑囚は、言うところの「意思疎通のとれない人間」を「心失者」と呼び、生きていても仕方ないからと言って知的障害者19人を殺害しました。あなたはこの考え方についてどう思いますか。 「生命倫理学」では「パーソン論」という議論があります。「どのような生命体に権利を認めるか」という議論です。権利を認められる主体が「パーソン」(人格)だとされます。 この議論の中で、知性、理性、自己意識を持った主体がパーソンであるという論じ方をする論者は多いそうです。ピーター・シンガーさんとかマイケル・トゥーリさんといった人たちが、そのような立場から、場合によっては新生児を殺すことも認められると主張しています。 知性や理性をメルクマールにするかぎり、それは多い少ないのグラデーションがあるものですから、権利主体としての認められ方にも、多い少ないのグラデーションが出