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おみそ汁
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しかしまた、上海で、岸田吟香が片假名の種字をつくつて、日本文字活字をふたたび誕生させたということは、一方からみると、けつして偶然ではなかつた。周知のように、吟香は元治元年にジヨゼフ彦(濱田彦太郎)らと“新聞紙”を發行した。「新聞」と名ずけたものには、これよりさき文久二年に開成所教授、さきにペルリ來航當時通詞として活動した昌造の同僚堀達之助らによつて編輯されていた「官板バタビヤ新聞」や「海外新聞」などがあつたけれど、これはそれぞれに一册の書物であり、外國の新聞から抄譯したものを、時間の制限なしに、刊行され書店から發賣されたものであつた。しかし吟香の“新聞紙”はリーフレットである。月に「三四回」ずつ發行されて勿論日刊でも週刊でもなかつたが、それは能うかぎり早く、しかも講讀者を予約して配達されたものであつたという點で、日本で一番最初に、新聞の性質に近ずいた新聞であつた。 「予が“新聞紙”を刊行し
一 活字の發明について私が關心をもつやうになつたのはいつごろからであつたらう? 私は幼時から大人になるまで、永らく文撰工や植字工としてはたらいてゐた。それをやめて小説など書くやうになつても、やはり活字とは關係ある生活をしてゐるのであるが、活字といふものが誰によつて發明されたのか、朝晩に活字のケツをつついてゐたときでさへ、殆んど考へたことがなかつた。しひていふならばこれもすこし縁のとほい「舶來品」くらゐに思つてゐた。ずツと海のむかふから、鐵砲や、蒸汽機關や、電氣や、自動車と一緒に、潮のごとく流れこんできたもので、えらいことにはちがひないが、何となく借物のやうな氣がしてゐた。それにもつと惡いことは、空氣の偉大な效用は知つてゐてもかくべつ有難いとも思はぬやうな、恩澤に馴れたものの漠然とした無關心さで過してゐたのである。 したがつてドイツ人グウテンベルグや日本人本木昌造の名をおぼえたのは、ツイここ
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