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広瀬淡窓 - Wikipedia
廣瀬淡窓の石像(桂林荘公園) 広瀬 淡窓(ひろせ たんそう、天明2年4月11日(1782年5月22日) - 安政3... 廣瀬淡窓の石像(桂林荘公園) 広瀬 淡窓(ひろせ たんそう、天明2年4月11日(1782年5月22日) - 安政3年11月1日(1856年11月28日)[1])は、江戸時代の儒学者、教育者、漢詩人。豊後国日田の人。淡窓は号である。通称は寅之助、のちに求馬(もとめ)。諱は建。字は廉卿あるいは子基。当初の号は別号は青渓。死後、弟子たちにより文玄先生と諡されたという。 弟に広瀬久兵衛、広瀬旭荘がいる。日田市長・衆議院議員を務めた広瀬正雄は久兵衛の4代目の子孫、大分県知事の広瀬勝貞は正雄の息子。 豊後国日田郡豆田町魚町の博多屋三郎右衛門の長男として生まれる。少年の頃より聡明で、淡窓が10歳の時、久留米の浪人で日田代官所に出入りしていた松下筑陰に師事し、詩や文学を学んだが、淡窓が13歳のときに筑陰が佐伯藩毛利氏に仕官したため師を失う[2]。16歳の頃に筑前国の亀井塾に遊学し、亀井南冥・昭陽父子に師事