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明智光慶 - Wikipedia
異説が多く謎に包まれている光秀の家族のなかで、十五郎は考証的に実在を推認できる男児で、光秀の書状... 異説が多く謎に包まれている光秀の家族のなかで、十五郎は考証的に実在を推認できる男児で、光秀の書状など史料に「十五郎」という表記がある[2][注釈 3]。ただし、通説では十五郎を光慶のこととするが、光慶は『明智軍記』に登場する名前であり、同記では名を十兵衛光慶とすることから、光慶の諱は正しくないとの説もあるので、諱は厳密には不詳。 光慶が歴史に登場するのは、光秀による丹波国・亀山城(京都府亀岡市)の築城前後であり、初陣の記録もなく[3]、目立った活動や功績は明らかではない。天正10年5月28日に催された光秀主催の西之坊威徳院連歌(愛宕百韻)において、十五郎(光慶)の名が見られ、「国々は猶のどかなるころ」という最後の一句を詠み、この会をおさめた[4]。 本能寺の変の前後の行動は2説がある。1つは、亀山城に在城していて変の一報を聞き、父の無道を嘆いてその場で悶死(病死)したとする説である[1][