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立花誾千代 - Wikipedia
大友氏の有力家臣(加判衆)であった戸次鑑連(立花道雪)の一人娘として筑後国山本郡(現・福岡県久留... 大友氏の有力家臣(加判衆)であった戸次鑑連(立花道雪)の一人娘として筑後国山本郡(現・福岡県久留米市田主丸町竹野)の問本(といもと)城にて誕生[注釈 2]。名前に含まれる「誾」の字は“慎み人の話を聞く”という意味合いを含めて肥前の僧侶、増吟が名付けた。傅役には、道雪の後妻・仁志姫との仲介を取り持った縁で、城戸知正が命じられる[2]。 天正3年5月28日(1575年7月6日)、誾千代が7歳の時に立花城の城督・城領・諸道具の一切を譲られている。道雪は後継者となるべき息子がおらず、一人娘に城督を継がせるため、通常の男性当主の相続と同じ手続きを踏み、主家である大友家の許しを得た上で(同年6月28日(8月4日)付けで大友宗麟・義統の安堵を受ける)、姫を立花城の城督とした[3][4]。戦国時代でもまれな例と言われている。天正9年(1581年)、高橋紹運(大友宗麟の宿老・吉弘鑑理の次子)の長男である宗茂
2012/06/13 リンク