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失われたラザロについて――中村光夫、三島由紀夫、転向 その4 - KAZUO NAKAJIMA 間奏
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失われたラザロについて――中村光夫、三島由紀夫、転向 その4 - KAZUO NAKAJIMA 間奏
ブランショに、革命=恐怖政治を文学と直結させていくのは、むろんサドの存在である。 一七九三年に、革... ブランショに、革命=恐怖政治を文学と直結させていくのは、むろんサドの存在である。 一七九三年に、革命と《恐怖政治》とに完全に一致していた一人の人物がいた。〔…〕サドは優れた作家である。作家のすべての人間の中で最も孤独であり、それなのに公共的人物であり重要な政治家である。終生閉じ込めながら絶対的に自由であり、絶対的な自由の理論であり象徴なのだ。〔…〕彼の作品は否定のための働きでしかなく、彼の経験は、熱狂した否定の動きである。その否定は血を見るまで押し進められ、他者を否定し神を否定し自然を否定しそして、この絶えまない循環する輪の中で至上の絶対としてみずからを楽しむのである。(「文学と死への権利」) 三島もまた、フランス革命はサドの思想に補填されなければ何でもなかったと考えていた。だからこそ、六八年革命前夜に、革命によって釈放される直前のサドを『サド侯爵夫人』(一九六五年)として書くのである。三