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関ケ原後も生存? 名将・島左近の墓を発掘調査、見つかった人骨(産経新聞) - Yahoo!ニュース
戦国武将、石田三成の腹心で、慶長5(1600)年の関ケ原の戦いでの勇猛な戦いぶりが伝わる島左近の... 戦国武将、石田三成の腹心で、慶長5(1600)年の関ケ原の戦いでの勇猛な戦いぶりが伝わる島左近の墓の発掘調査が5日、立本寺(京都市上京区)の塔頭(たっちゅう)、教法院(きょうぼういん)で行われた。関ケ原で島は討ち死にしたとされる一方、遺体は見つからず、合戦後の消息については生存説を含めて複数の説があった。この日の調査では複数の人骨が見つかり、三木天道住職は「骨はないと思い寂しい気持ちだったが、(骨が見つかり)ありがたい話だ」。今後、さらなる実態解明を進める。 【写真】関ヶ原合戦時の石田三成陣跡=岐阜県関ヶ原町 三木住職によると、島の墓所は全国に5カ所ほどあるというが、教法院の墓石には唯一「土葬」との文字が刻まれている。教法院には島の墓牌と過去帳などが残されており、それによると島は関ケ原の戦いから32年後の寛永9(1632)年に亡くなっていた。また三木住職は、関ケ原の戦いの後も島が京都で生存
2024/06/06 リンク