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おみそ汁
orion12.hatenablog.com
もし眼に見えないモノと対峙することになった時に自らの無知を認識出来てなければ『危険な局面』を迎える可能性はそれだけ高まります。 知ってるつもりになればなるほどアチラさんのマヤカシに引きずり込まれる確率が高まるからです。 神秘現象に対して人外のモノが人間の側が望むもっともらしい理由を与えることは簡単です。 大抵はその人外のモノ自身が仕掛けた現象だからです。 所謂マッチポンプってヤツです。 ここでいうマッチポンプというのは例えば「何処かの宗教の信者の人に不吉なことが続けて起こる→そこの神さまに何とかしてほしいと祈る→状況が急に好転する→神さまのお蔭だと信じる」みたいな話です。 そうやってきっちりアチラさんに取り込まれていくわけです。 で、そうやって取り込まれやすいのはどういう人かというと「自分はすごい頭が良くて、分からないことなど無いんだ!」くらいに思ってる人の方です。 要するにそれは「自分の
例えば菜食主義の人ってのは「人間>哺乳類>魚類>植物」という風なヒエラルキーがピシッと頭の中に入ってるんだろうと思うのです。 人間を頂点とした生物のピラミッドを描き、「人間に近いものほど霊的に偉いんだ!」という価値観をお持ちなのでしょう。 そういった価値観はいわゆるスピリチュアルにも少なくありません。 例えば亡くなった動物の多くが低級な獣霊になって悪さをするみたいな話が実しやかに語られるわけでして… もちろんどのような価値観をお持ちになろうとそれぞれの全くの自由です。 「人間は万物の霊長で、地球の王様なんだぞ!」と考えたって自由です。 ただ、個人的にはそういう考え方にはすごく違和感を感じます。 とにかくスピリチュアルや宗教の世界には人間至上主義みたいなモノを何の疑いもなく信じている人が大勢いらっしゃる印象があります。 「神さまは人間を無条件に守っている」なんて考える人には特にそういう傾向が
世の中には『啓蒙したがる人』ってのが少なからずいらっしゃいます。 ここでいう『啓蒙したがる人』とは他人に対して「自分が『正しい道』に教え導かねばならない!」という暑苦しい使命感を持った人のことです。 人は「周りの人間より自分は優れている!」という根拠のない優越感を持ってしまうと「無知蒙昧な人間たちを自分が啓蒙しなくちゃいけない!」という傍迷惑な使命感に駆られたりするようです。 そして、それこそが「善を為すことだ!」と信じていたりします。 そういう人は必然的に他人に対して押し付けがましくなっていくものです。 何故なら「物事の筋が分かってない奴らにオレ様が本当のことを教えてやるよ〜!」って感じの『熱い想い』が心の底にあるからです。 簡単にいえば「善意にあふれた上から目線」なわけです。 では、そもそもどうして「善意にあふれた上から目線」になってしまうのかというと「正しいことは一つだけ! その正し
生き物というものは、エネルギーの出し入れを行うことで『生きるチカラ』を得ています。 分かりやすい例は『呼吸』です。 「吸って吐いて」の繰り返しを絶え間なく行わなければ生きていけません。 でも、『呼吸』というモノは、自分の周りにある空気を分別せずに吸い込むことしか出来ないのです。 身体に良い成分のみを先に選別して吸い込むなんてことは到底無理です。 眼に見えないエネルギーに関しても最初から自分に都合の良いとこだけ分別してから取り入れるなんてことは出来ません。 取り入れるか取り入れないかの選択権は持っていますがね。 「良からぬエネルギーだけ選り分けてから取り入れる」なんて芸当は不可能です。 何か眼に見えないモノに繋がるってのも同様なんですよね。 同様ってのは構造が同じってことです。 ここでいう『繋がる』とはエネルギー的な回線が通るということです。 エネルギー的な回線が通ると「影響を与え合う関係」
ヒーリングなんてことをしておりますと所謂成仏していないヒトに出会うことは決して珍しくありません。 珍しくないというのも随分控えめな言い方なんですけどね… 所謂『成仏』してないヒトの多くが生きていた時の刷り込みとそれに基づく条件反射でほぼ動いているようにお見受けします。 「死んだらお墓に行かなくちゃ!」とか「仏壇に居なくちゃ!」とかいう想いでズルズルと動くのです。 『線香の煙』や『読経の声』にも亡くなられた方は反応して寄って来ます。 そういうモノによって「自分も成仏出来るはずだ!」という生前の刷り込みの結果なのかなと感じます。 あと、自分が亡くなったこと自体分かってない人も大勢いらっしゃいます。 そういう人はあちこちの道端などにぼーっと立ってたりします。 いわゆる『地縛霊』ってヤツです。 本当は場所に縛られてるわけではなく、ご自分が死んだことを認識出来ないので動けないのだと思います。 ことほ
波動的な変化を知るためのサインの一つとして『耳鳴り』があります。 いつでもどこでも誰にとってもサインになるとは限りませんけどね。 単に体の不調のサインである場合もありますし。 ただ、何かいつもと違うことが起こり、それに引っかかるモノを感じる時は、何であれ「変化の兆し」として気を付けておいたほうがいいでしょう。 そこんところを「単なる気のせいにして無視してしまうか、それとも少しでも心に留めるようにしておくのか」が運命の分かれ目になるなんてことも十分あり得ることですので。 「単なる気のせいにして無視してしまうか、それとも少しでも心に留めるようにしておくのか」どちらを自分の心のクセにするかで五感の鋭さに差が現れます。 五感の鋭さの差というのは、勘の鋭さの差を生みます。 繰り返しになりますが以上を改めていうと、感覚に引っかかるモノをおざなりにせず、何かあるのかなぁと心の眼を凝らしてみることをクセに
人間というのは本質的に無知な生き物です。 人間ごときが何でも分かるわけがないのですから当たり前です。 でも、知らない部分は何かで補わなきゃなりません。 その何かとは簡単にいえば『想像力』です。 ここでいう『想像力』とは知らないなら知らないなりに一生懸命察したり慮ったりしようとする心の働きのことです。 先ず自分の無知を皮膚感覚で知ることが『想像力』を養う第一歩になります。 逆に知ったつもりになればなるほど察したり慮ったりするチカラは失われていきます。 なので、「オレは何でも知ってるんだぜ!」みたいな感じの人は『想像力』が乏しいと考えて先ずハズレはありません。 でも、現実には「自分は世界の全てを知り尽くしているぜ!」てな感じの人が世の中には少なくありません。 よく言えば、自信満々な感じと申しましょうか… で、その後そういうタイプの人がどうなるかというと十中八九『啓蒙したがる人』になります。 こ
もう随分前から人間世界はまるで遠心分離機にかけられたように白と黒、上と下、右と左という風に波動がハッキリと分かれ続けているように見えます。 その現象は止まることを知らず、様々なモノの違いがどんどんくっきりしてきました。 昔ならあったはずのグレーゾーンが完全に近いほど消滅しています。 今までは目先にあることを見て、ちょこちょこといじくるだけで一生を過ごせた人々も多かったかも知れません。 そういう人々は、眼に見えない世界への畏れもなく、唯物論的な視点で人生を謳歌することも出来たでしょう。 でも、『今現在』は様々なことの『素性』が抗いようもなく露見する時代です。 これまでは眉唾のオカルトと一笑にふされていた眼に見えない世界の出来事もまた否応なく身近になるでしょう。 日本人はよく平和ボケとか言われますが、眼に見えない世界についてはもっと平和ボケって感じます。 考え方が唯物論に偏重して、何か大事なも
ここでいう所謂カミサマってのは何かと申しますと「これまで世界のどこかで人間によって崇め奉られてきた眼に見えない存在全般」を指します。 今回に限らず私がカミサマって言う時はそういうモノのことを想定しているとお考えください。 そもそも「あれでそれでこれで、こういうモノには神さまという名前を付けよう!」ってことを決めたのは人間です。 別の言い方をするなら、眼に見えないナニカに対して神さまって概念をどこかの誰かが勝手に押しつけただけの話なのです。 だから、社会的な影響力の強い別の誰かが同じモノに対して「これは悪魔だよ〜」って言えば悪魔って名前になり得ます。 ただ、それは「その人たちが神だ悪魔だと呼んでるモノの本質がどういうモノであるのか?」ということとは、全然別の話です。 例えば川を流れているモノのことを水と呼ぼうとH2Oと呼ぼうと、川を流れるモノの本質に変わりはありません。 人間が神さまと呼んで
ここでいうところの『ライン』というのは何らかのエネルギーの送受信を可能にするために仕掛けられた隠された装置のようなモノのことです。 例えて言えば蟻の分泌するフェロモンみたいにA地点とB地点を眼に見えない道で結ぶようなモノです。 その眼に見えない道が一度結ばれるとそれを通じて色んなエネルギーがやって来るようになります。 そして、知らず知らずのうちに様々な影響を受けるのです。 この『ライン』というのはこの世界の至る所に当たり前のように仕掛けられています。 実に多種多様なカタチの『ライン』が世の中にはあるのです。 コードのようなモノもあれば、無線LANのようなモノもあれば、盗聴機のようなモノもあります。 もちろん物理的にそんな形をしているわけではないですがね… じゃあ、何故そんなモノ達が仕掛けられているかというとエネルギー的にあちこちをナニカを繋げるためです。 そんで上手いこと繋がったら自分たち
ここでいう蟲というのは眼に見えないイモムシか何かのような黒くてモヤッとした不定形のエネルギー体のことです。 あくまでも私が個人的にそう呼んでいるだけの名称ですがね… 蟲は生きている人間から直接発せられているエネルギーではないように感じます。 ただ、物の怪やオニの類いのような『荒々しい強さ』は持っていません。 大概は澱んだエネルギーが自然と集まり凝り固まって出来たモノのような気がします。 オニや物の怪ほどガッチリと出来上がったモノではないのは確かです。 この蟲というのは大抵クネクネした細長いミミズか何かのようにイメージされます。 例えていえばもののけ姫でアシタカの腕に蛇のように絡みつくタタリガミってヤツに似ています。 それがミミズなのか青虫なのか蛆虫なのか分かりませんが、私の感じるイメージがそういうモノだってだけの話です。 街中などに行きますと時折蟲がフワフワと浮いていることがあります。 い
私の場合「人間って地球で一番偉いんだぜぇ!!」的な世界観を抱いたことがありません。 逆に「人間ってなんでこんなに出来損ないの生き物なんだろう」という想いがずっと頭を離れないのです。 それは大層な思索探究の末に辿り着いた結論などではなく子供の頃からずっと心の奥にあるものなんですよね。 以下の話の前提は『そんなところ』から始まっていることを申し上げておきます。 菜食主義の人ってのは「人間>哺乳類>魚類>植物」みたいなピラミッド構造が頭の中に貼り付いているんだろうなと思うのです。 人間を問答無用で頂点に置き、「人間に近いものほど霊的に偉いんだ」という『生物観』を基礎としているようにお見受けします。 そういった『生物観』はスピリチュアルな人にも多いように感じます。 例えば地球をひとつの生命体のように捉えて「地球は泣いているよ! もっと地球の声をもっと聞きなさい!」みたいにおっしゃる方がいらっしゃい
以前に「誰かが亡くなったら自分の親族に悪いことをしてやろうと思うでしょうか? 当然、そんな人間などどこにもいないはずです!」みたいな意味の言説について述べたことがあります。 「ご先祖さまは子孫に対して良いことしかするわけないじゃないか!『悪いご先祖』なんて一人もいないんだよ!」って感じのお話です。 で、個人的にそのタイプな考え方を『ご先祖丸ごと性善説』と名付けました。 ただ、ご先祖丸ごと性善説というのは、死後のココロの変質というモノを前提にしないと成り立ちません。 だって、生きている時にみんながみんな、そんなにも善良で思いやりのある人間であったわけはないからです。 今の世の中でも見渡せば「今だけ欲だけ自分だけ」の人間が掃いて捨てるほど生きています。 つまり、ご先祖丸ごと性善説には、死ぬことによって生きている時のその人の生き方や人格が一度完全にリセットされるという考え方が根底にあるのでしょう
ヒーリングなどしておりますと波動のレベルの低いエネルギーが人間の心や身体の中に入っているのに出くわすことはありふれた日常的な出来事になります。 そういったエネルギーが何処から来るかというと大雑把に分けて「人から来るか・場所から来るか」のどちらかです。 つまり、その人の中に入ってるエネルギーはその人が出会った人か、行ったりした場所か、どちらかからやって来るということです。 もっと言えば物ってのもありますが、物のエネルギーってのは大抵人か場所に付随するモノです。 エネルギーをもらった場所のなかには神社仏閣ってのも当然あるでしょう。 別に信心深くなんてなくても、旅行に行けば観光がてら寺社を巡ったり、自宅や勤務先の近所に神社があれば、その中やそばを通ったりすることはありますからね。 わざわざ境内とかに入り込まなくてもアチラとこちらのピントが合えばエネルギーはやって来ます。 そもそも神社仏閣にはカミ
つくづく中二病とスピリチュアルってのは親和性が高いんだなって感じる今日この頃です。 ていうかスピリチュアルに流れつくような人ってのは、そもそも中二病の傾向が強いってことかもしれません。 中二病とは要するに「自分が世界の主人公で、この世界は自分を中心に回っていて、自分の世界観を強く反映した行動や言動をとってしまう状態」の事。 要は「私はお前ら一般人とは違う『特別』な人間なのだ!」というニオイをプンプンさせてる状態が中二病って事です。 「如何にも自称霊能者の人とかが信じてそうなこと」ですよねぇ。 まぁ、自称霊能者の人が全員中二病だとは思ってませんし、そう申し上げる気もありませんけどね… ただ、その界隈には「オレの能力はチートだぜ!」って思い込んでる人は多そうです(ー ー;) スピリチュアルとは、歳をとった中二病の人々が少なくとも仲間内では奇異な眼に晒されず生きていける最後の楽園だと思います。
このブログでは何度も想像力の大切さについて述べてきました。 「想像力こそが人間らしさの根っこにある」ということについてね! ここでいう想像力とは知らないなら知らないなりに一生懸命察したり慮ったりしようとする心の働きのことです。 逆に何でも知ったつもりになればなるほど想像力は失われます。 一生懸命察したり慮ったりしようとする心(想像力)が正常に働いていれば、他者の痛みや苦しみまた喜びや希望などに対して否応なく敏感になります。 その敏感さこそが『人間らしさ』を生み出す源となるのです。 人間というのは本質的に無知な生き物です。 人間ごときが何でも分かるわけがないのですからそれは当たり前です。 先ず自分の無知を皮膚感覚で知ることが想像力を養う第一歩です。 逆に知ったつもりになればなるほど他者を慮る心は衰えていきます。 慮るチカラが衰えた状態が鈍感ってことです。鈍感というのは言い換えれば心の視野が狭
森羅万象すべてのものには『波動エネルギー』があります。 そして、生きるということは数限りない『出会い』と『選択』の連続で成り立っています。 ということはこの世界にいれば様々な波動エネルギーとの出会いと選択も避け難くやって来るということです。 で、その出会いと選択はこちらにだけではなく相手サイドにも影響を与え得るモノです。 その影響は本人にとって良い影響もあれば、良くない影響もあります。 この影響を与え合う関係が成立するのが『繋がる』ということです。 眼に見えない世界的に『繋がる』とは、エネルギー的な回路が成立したことを指します。 エネルギー的な回路が成立すれば様々なエネルギーが出て行ったり、やって来たりするようになります。 そのエネルギーの行き来によって様々な影響が生まれるのです。 所謂スピリチュアルな世界では、「エネルギー的なものと繋がることで良くない影響が出る場合もある」ということに対
古今東西全ての人間が自分の見たいものを見たいように見てきました。 「見たいものを見たいように見ている」とは「その人の見ている所謂『現実』というのが、実は潜在意識やら先入観やらによって恣意的に集められた出来事の集積に過ぎない」ということです。 一言でいえば「すべての人間は主観的な世界観の中で生きている」ということです。 だから、『純粋に客観的な視点を持つ人間』などというモノはどこにも存在しません。 当然ながら、個人の主観というモノには、『偏り』が存在します。 一人一人が見ている『世界』というモノには、それぞれに常に個別の『偏り』が存在しているということです。 でも、世の中には「自分の主観と離れたところに永久不滅の真理なるモノが存在する」と信じている人が古今東西大勢いらっしゃいます。 「自分の主観と離れたところに永久不滅の真理なるモノが存在する」と考える方々は純粋に客観的な視点を持つモノを信じ
前回「物の怪が減って、オニが激増している」という話をさせていただきました。 なので、今回改めてオニについて語らせていただこうと思っております。 「人間の想念の塊のようなんですが明らかに普通の想念エネルギーとは毛色が違うモノがこの世には存在する」ということに或る時気付きました。 それは「世の中全部気にくわない! 」とか「人間なんて滅んでしまえ‼」とかいった破壊的或いは破滅的なエネルギーが素になっているようです。 普通のネガティブな想念エネルギーと比べると遥かにドロ~と濃厚で禍々しく黒いイメージのモノです。 邪悪な『まっくろくろすけ』というか暴走モードに突入した『カオナシ』というか… 最初に真っ黒の中に裂けた口と牙が感じられたので個人的にソレをずっと 『オニ』と呼んでいます。 つまり、オニの製造元は人間だってことです。 人こそがオニの揺籃であるとも言えます。 残念ながら自分の中にオニを持ってい
この世界では膨大な数の思念が一カ所に集まり凝縮することによって新たな別のエネルギー体を生み出すということが実際にあり得るのです。 例えば強烈な怨みのエネルギーがたくさん結び付けば『怨みの精霊』のような新たなエネルギー体に生まれ変わります。 あたかもポイントカードにポイントがMAXに貯まって何か新しい賞品に変わるように… 私はそれを『物の怪』と呼んでいます。 まあ、一般的な言葉で言えば自然霊というのが一番近いのかも知れません。 もっと簡単に言えば、元々この世に生きていて、死によって肉体を失くした者を幽霊とするならば、端から肉体を持っていない人外の存在が物の怪というモノです。 物の怪にはキツネ・ヘビ・龍・カラス・クモ・狼の6種類がいるのを確認してきました。 個人的に確認しただけなので、他の形態のモノが絶対にいないとは限りませんけどね。 物の怪の種類の違いというのはいわば自称みたいなモノです。
ヒーリングなんてことをしておりますと正直不思議だなって思うようなことには日常的に見聞きしたりします。 ここでいう不思議だなって思うようなこというのは、いわゆるオカルト的な事柄のことです。 とはいえ起こった出来事をあまりに生々しく語ると「コイツ頭大丈夫か?」って感じになるかも知れません。 なので、このブログではそんな出来事の数々を3割か4割は薄めて、そんでもって事実関係も結構ボカして書いていたりします。 まぁ、それでも人によっては「ナニそれ?!」っていう感じの話かも知れませんけどね…(^_^;) 体験した本人自身が「これってホントかよ?!」みたいに感じることも多々あります。 だから、「他人様がマユツバに感じるのも無理はないだろうなぁ」と思うのです。 中には「それってどこの創作ファンタジーだよ!」とツッコミたくなる方もいらっしゃるでしょう。 突然「物の怪が〜」とか言われても「何じゃそりゃ?」と
癒しとは楽になることです。 ここでいう「楽になる」とはダラダラと安直に怠惰に過ごすという意味ではなく、「それぞれが元々持っている自然で無理のない状態に戻る」ことです。 謂わばニュートラルに戻るということです。 このブログにおける『ヒーリング』とはその「楽になること」をお手伝いすることです。 主体は何時もヒーリングを受ける側のほうにあります。 例えて言えば、歩きにくい人のための杖や見えにくい人のための眼鏡みたいなものなんじゃないかな~と思うのです。 今まで何度も書いてまいりましたが以上が私の行なっているヒーリングのキモの肝です。 このブログ内で使われる『癒し』『ヒーリング』『楽になる』といった言葉の意味もここにあります。 人は自然な状態に近付けば近付くほど結果的に楽になります。 苦しみが続くことは『自然な状態』ではないからです。 健康とは身体に関しても、心に関しても出来るだけ自然で無理がない
旧約聖書の創世記に最初の人間 (アダムとイブ) が神によって楽園 (エデンの園) から追放されるというお話があります。 「人間は元々苦しみ一つない『永遠の楽園』にいた」という伝説です。 つまり、そこには「神に造られた原初の人間は何の苦しみもない世界で当たり前に生きていた」という考え方が根底にあるわけです。 しかし、結局「人間の邪まな行いが神の怒りをかい、 初めに暮らしていた楽園を失い、苦しみと短い寿命の今の世界に住むようになった」という結末に落ち着くのです。 この筋書き通りなら遥か昔ですが、この世には一度楽園があったってことになります。 だからこそ楽園伝説を信じる人の心の何処かには「人間は元々ラッキでーハッピーな状態がデフォルト (常態)なのだ」という想いがずっとあるのだと思います。 ここでいう『楽園伝説』というのは「人間は元々苦しみ一つない『永遠の楽園』にいた。 だから、やり方次第でその
古今東西全ての人間が自分の見たいものを見たいように見てきました。 「見たいものを見たいように見ている」とは「その人の見ている所謂『現実』というのが、実は潜在意識やら先入観やらによって恣意的に集められた出来事の集積に過ぎない」ということです。 その人好みに取捨選択されずコーディネートもされない純粋に客観的な『事実』など何処にも存在しないのです。 別の言い方をすれば「自分が見たいものと見たくないものを無意識に自動で選別する心の装置を全人類が標準装備している」ということです。 つまり、人間というフィルターを通してる限り「丸ごと全部ありのままに世界が見えるわけはない」ってことなのです。 以上を一言でいえば「人間は元々主観的な存在だ」ってことです。 主観というものには大なり小なり偏りが存在します。 一人一人が見ている『世界』というのにはそれぞれに常に偏りがあるということです。 そんな偏りかある存在
人間というのは本質的に無知な生き物です。 人間ごときが何でも分かるわけがないのですからそれは当たり前です。 でも、知らない部分は知識ではない他の何かで補わなきゃなりません。 その何かとは簡単にいえば『想像力』です。 ここでいう『想像力』とは知らないなら知らないなりに一生懸命察したり慮ったりしようとする心の働き全般のことを指します。 先ず自分の無知を皮膚感覚で知ることから『想像力』は始まるのです。 逆に何でも知っているつもりになればなるほど『想像力』は失われていきます。 その人が使わなくなるので、察したり慮ったりするチカラが加速度的に弱まるからです。 慮るチカラが弱いというのは心の視野がその分狭いということを表しています。 別の言い方をするなら、心の視野は察したり慮ったりという行為によって、広くなったり狭くなったりするということです。 心の視野が狭くなるほど周りのことなんて見えなくなります。
この世とはある意味マヤカシだらけの世界です。 マヤカシだらけの世界とは裏返して見れば『もっともらしさ』を競う場ということです。 出来のいいマヤカシは八分くらいの『本当』の中に二分の大きな『偽り』がさりげなく混ぜ込まれているのです。 そうすれば、その『本当』に目が眩んで『偽り』がもっともらしく見えるからです。 これもホント! それもホント! あれもホント! と小さな本当を積み上げていって、最後に大きなウソでドーンとぶち込むわけです。 あの手この手で信用させてから、肝心要のウソ話に持っていくのです。 だから、この世のマヤカシにどっぷり浸かりながら、同時に己れの「正しい!」にべろんべろんに酔いしれることだって可能です。 っていうか今の世の中そういう人があちこちに溢れているようにお見受します。 目先の出来事の真贋ばかりにずっと心のピントを合わせていたら遅かれ早かれ心は迷います。 そういうやり方を続
「成仏してない先祖は子孫が責任持って成仏させなくてはならない」みたいなことをおっしゃる霊能者が世の中にはいらっしゃるそうです。 それって私には全然ピンと来ない話なんですよねぇ。 良くも悪くもそんなに先祖が子孫にガッツリ関わるのが常態化してるのなら、所謂浮遊霊みたいなモノは何で存在するのでしょうねぇ? 所謂地縛霊は何故あちこちに立っているのですかね? そういう浮遊霊や地縛霊だって誰かのご先祖さまのはずですが… そもそも、じゃあ何故とんでもなく多くの亡くなったヒトたちが子孫とは縁もゆかりもない場所で地縛霊やら浮遊霊やらをしてるんでしょうか? はっきり申し上げていわゆる未成仏霊のヒトの多くは子孫と関係ない場所に存在しています。 だから、「地縛霊だけどお盆やお彼岸の期間だけ自由に動けて子孫のところへ帰ってくる」なんて話はあり得ないのです。 要は『先祖供養』と『成仏or未成仏』はそれぞれ別のラインに
世の中には『特別』であることを求める人がたくさん存在います。 特別なチカラ、特別な感覚、特別な使命、特別な人生などをです。 『特別』に憧れ、『特別』に囚われている人々です。 ここで言う『特別』とは例えば「自分は他人より世界の真実を知っている!」とか「自分は神より選ばれた人間である!」とかいう優越感に溢れた状態のことを指します。 そういう状態になりたいと渇望し、あるいは「既に自分はそうなっているに違いない!」と思い込みたい方々が大勢いらっしゃるわけです。 よく魔法とか出てくるファンタジー系の物語には、「最初無力だった主人公が実は秘めたる凄いチカラを持っていて、話が進んでいく過程でそのチカラに目覚める」みたいなタイプの筋書きがあります。 または「スゴい魔術師とかの血筋を引いていて、知らぬ間にそのチカラを引き継いでいる」ことがストーリーの途中で分かったりとかね。 どうしてその手の筋立てが多いかと
ヒーリングをしていると様々な波動エネルギーをヒーリングしている相手の方の中に見出します。 人間というのは誰しもそれだけ雑多なエネルギーを抱えているということです。 ただ、その雑多なエネルギーの一つ一つに誰しもが頷くような曰く因縁があるわけではありません。 ここでいう誰しもが頷くような曰く因縁というのは、例えば「先祖から続く怨霊があなたに憑いています!」みたいな話のことです。 それでご本人が納得するかどうかはともかくとして「なるほど! だから、憑いたのか!」と感じるような理由のことです。 そういったなるほど感のある曰く因縁がある場合ももちろん中にはありますが、全体的に見れば随分少ないです。 それよりも例えば「病院通いをしていてそこにいる亡くなられた赤の他人を行きずりで連れて帰る」なんてことの方が圧倒的に多いと思います。 要するに個人的な経験から推測するに「世の中の大多数は行きずりのザックリと
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