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江戸城に「天守」がないのは何故?再建に「待った」がかかった驚きの理由とは | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト
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江戸城に「天守」がないのは何故?再建に「待った」がかかった驚きの理由とは | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト
文/堀口茉純(PHP新書『江戸はスゴイ』より転載・再構成) 明暦三年(1657)に起きた「明暦の大火」... 文/堀口茉純(PHP新書『江戸はスゴイ』より転載・再構成) 明暦三年(1657)に起きた「明暦の大火」で消失するまで、江戸城には天守がありました。それも、全高は60メートルほどもある、日本最大級の大天守でした。 江戸幕府は明暦の大火のあと、すぐに江戸城の復興に着手しました。天守ももちろん再建する計画で、土台の普請を加賀藩主・前田綱紀に命じたのです。 前田家は領内から5000人の人夫を動員して、これに着手。御家の威信をかけて瀬戸内から巨大な御影石を運ばせて天守の土台を完成させたました。これが、今も東御苑に残る天守台です。 あとは、上に天守閣を築くのみだったのですが、これに待ったをかけたのが会津藩主・保科正之でした。保科正之は三代将軍・徳川家光の異母弟にあたる人物で、家光の死後、四代将軍となった甥っ子・家綱の後見人として、幕政において強い発言権を持っていました。 明暦の大火のとき、将軍・家綱は