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会話術
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前回記事で大正十年(1921年)のワシントン軍縮条約や昭和三年(1928年)のパリ不戦条約が締結されて以降、わが国の外交当局や新聞記者、思想界が、経済界の意向を受けて軍部を悪しざまに罵るようになり、五・一五事件で軍部の不満が爆発したという内容の短い白柳の文章を紹介させていただいた。では具体的に、当時軍部についてどのように議論されていたのであろうか。 国民に強い覚悟がなければ、強い外交交渉は出来ない 『日本外交の血路』(GHQ焚書)に、大正十一年十月にカナダ首都であるオタワ総領事であった太田為吉に会った時の記録が残されている。太田総領事の前職は米国サンフランシスコの総領事で、その時にアメリカの排日運動を経験し、またワシントン会議では日本全権の一随員となり、日本外交の難局に立ち向かって来た人物である。彼が白柳に以下のようなことを語ったという。 私どものような立場にある者が…たまたま帰朝を命じら
武士・兵士の生活の途を奪うということ 五・一五事件を報じる東京朝日新聞号外 Wikipediaより 今回も引き続き『日本外交の血路』(GHQ焚書)の内容紹介だが、「五・一五事変の史的考察」との題で書かれた白柳の文章をほぼ全文紹介させていただくことにしたい。彼がこの本を著した昭和七年(1932年)の五月十五日に、有名な「五・一五事件」が起きたのだが、彼はこの事件を「五・一五事変」と書いている。「事件」と「事変」の違いは、「事変」の方がより規模が大きく、「狭義では、警察力では鎮め得ない騒乱を指す」などと解説されているのだが、青年将校が首相官邸を襲って犬養毅首相を暗殺した大事件であり、「事変」と呼ばれてもおかしくないとは思う。「国立国会図書館デジタルコレクション」で戦前戦中の本や論文を調べると、この事件について「五・一五事変」と書いていた事例それほど多くはなく、戦前戦中から「五・一五事件」と呼ぶ
文保寺 前回記事で丹波市の桜を紹介させていただいたが、常照寺から丹波篠山市に向かう。丹波篠山市の寺社では高蔵寺が桜の名所として有名だが、枝垂れ桜の開花が遅かったのでパスして文保寺(ぶんぽうじ:丹波篠山市味間南1093)に向かう。 文保寺のホームページによると、この寺は大化元年(645年)に法道仙人によって開かれ、当初は長流寺と称されていたとある。天暦の乱(947年)で堂宇が焼失して以後寺は荒廃したが、正和年間(1312~1317年)に慈覚大師作と伝わる千手観世音菩薩を安置して再興し、文保年間(1317~1319年)に宝鏡寺の宮門跡一品親王真筆の勅額を下賜されて以降「文保寺」と称するようになったという。 しかしながら天正年間(1573~1592年)に明智光秀の丹波攻めに遭い、再び全山が焼失したのだが、江戸時代の中頃に復興したと伝わっている。 上の画像は天正末期に建立された楼門(仁王門)で、丹
桜の季節は人が多すぎるところはなるべく避けて、静かに楽しめる寺や神社に行くようにしているのだが、一昨年も、昨年も桜の季節は病院の中で過ごしたので、今年はあまり無理せずに、自宅からそれほど遠くはない兵庫県丹波市と丹波篠山市を巡ることにした。いずれの市も「桜の名所」として有名な寺社はあまりないのだが、市内を流れる川の両岸に植えられた桜並木がよく知られていて、丹波市では氷上町の加古川沿い、春日町の黒井川沿い及び竹田川沿い、柏原(かいばら)町の柏原川沿いなど、丹波篠山市では篠山川沿い、宮田川沿いなどに見ごたえのある桜並木が存在し、桜の季節になるとあちこちドライブしながら結構桜を楽しむことができる地域である。 圓通寺 最初に訪れたのは曹洞宗の古刹、圓通寺(えんつうじ:丹波市氷上町御油983)。 寺のパンフレットによると、この寺は南北朝時代の永徳二年(1382年)に足利義満が後円融天皇の勅命により創建
白柳秀湖(しらやなぎ しゅうこ)は、早稲田大学文学部哲学科に在学中に堺利彦・幸徳秋水らの影響を受け社会主義思想に接近し、プロレタリア文学運動の先駆となる作品をいくつか残したが、大逆事件以後社会主義とは縁を切り、文学ともはなれ、在野の歴史家、社会評論家として多くの著書を残している。 白柳の著作のうち4点がGHQによって焚書処分されているが、今回は昭和七年に刊行された『日本外交の血路』という本を紹介させていただきたい。彼の社会評論は過去の歴史を紐解いてその時代を読み解いていくスタイルで、非常に面白く説得力がある。 孤立はそれほど悲観すべきではない この本の冒頭に白柳は、昭和六年九月に始まった満州事変のことを書いている。文中の中で何度か「欧州大戦」という言葉が出てくるが、今でいう「第一次世界大戦」のことである。 欧州の近世史は、フランスが欧州を支配するか、イギリスが欧州を支配するかの競争で幕が開
ラウレル政権の正体 ホセ・ラウレル 1943年 前回の記事で、フィリピン第二共和国のホセ・ラウレル大統領は日本の傀儡ではないことを書いたのだが、ラウレルは回顧録を残しており、十月に挙行される建国式典の直前に日本を訪問して東條首相らと会談している。彼の回顧録には次のように記されている。 東條首相が立ち上がり、米国および英国に対する宣戦布告を要求する通告文を読み上げた(浜本氏通訳)。 私は東條首相の正面に、バルガス氏は私の右側に、アキノ氏は私の左側に座っていた。それはわれわれ三人にとってショックであった。 われわれはこのような通告を全く予想していなかったので、それに即応する回答を準備していなかった。 私は静かに神に祈り、そして祈りの言葉をつぶやいた。東條首相の言葉を浜本が通訳してから、私は立ち上がり、出来るだけ丁寧に、その要求には応じられない旨答えた。 私は次のように言った。 「わが国民はそれ
日本軍政時代の写真 前回の記事で、わが国は昭和十八年(1943年)五月の御前会議でフィリピンを独立させることを決定し、十月にホセ・ラウレルを大統領とするフィリピン第二共和国が誕生したことを書いたが、日本軍によるフィリピン占領からフィリピン第二共和国誕生までは、日本軍がフィリピンを統治していたことになる。その当時の写真や記録を読むと、少なくとも当初においては多くのフィリピン人が日本に親しみを持っていたことが伝わってくる。 『比島 : 從軍寫眞記録集』東亞文化書房 昭和19年刊(GHQ焚書) 上の画像はフィリピン戦の緒戦でマニラに入城する日本軍の戦車隊だが、多くのフィリピン人が日の丸を振って日本軍を出迎えている。 同上書 上の画像は兵隊さんの慰問に集まった子供たちが相撲を取っているところ。子供たちは楽しんでいるようだ。 同上書 フィリピンでは日本語熱が高まり、日本軍が強制したわけでもないのに、
コレヒドール要塞 バターン半島の沖合にコレヒドール島があり、そこにはスペイン統治時代からマニラ湾を守るための要塞が築かれていたのだが、フィリピンがアメリカ領となったのちアメリカはその補強工事を行い、30センチカノン砲8門、30センチ榴弾砲12門等の重砲群と、巨大な地下室、発電所のほか電車まで備えた近代的要塞を構築していた。 『大東亜戦争写真史 第6回』富士書苑 昭和29年刊 p.37 上の画像はバターン半島南部とコレヒドール島の地図だが、コレヒドール島はおたまじゃくしのような形をしていて、島には巨大な要塞が築かれていた。 コレヒドール要塞の巨砲 『捕虜日記』より 昭和十七年(1942年)四月九日にバターン半島の米比軍が降伏したあと、コレヒドール島からバターン半島への砲撃は激しくなっていた。従軍していた火野葦平は次のように記している。 バターン半島の敵は壊滅してしまったが、コレヒドール島だけ
バターン半島攻略戦 前回記事で1942年3月11日にマッカーサーがフィリピンを脱出したことを書いたが、その後日本軍は砲兵隊、航空部隊を増強し、3月24日から攻撃機によるバターン半島の爆撃が開始され、4月3日から地上部隊による総攻撃が開始された。日本軍は敵の防御線を突破し前進し続け、4月9日にはバターン半島総司令官のキング少将が降伏を申し入れてきた。従軍していた火野葦平は敵の降伏について『大東亜戦争陸軍報道班員手記 第二輯』(GHQ焚書)に次のように記している。 九日に敵は白旗を掲げてわれわれのところにやって来た。憔悴して汗に汚れた敵は眼をぎょろぎょろさせて急ごしらえの白旗を力のない手でかついでいた。かつては傲岸であった米人のこの姿を見て、私は溢れ出る涙を抑えることが出来なかった。投降兵は蜿蜒(えんえん)と続き、林の中から山の奥から、谷間からハンケチを掲げ、両手を挙げた敵兵が湧くように出てく
フリーメーソンの資格を与えられたマッカーサー 前回の記事で、ダグラス・マッカーサーが一九三五年にフィリピン軍の軍事顧問に就任したことを書いたが、『マッカーサー回想記』を読むとマニラ到着後母が亡くなり、その後フリーメーソンの資格が与えられたと書いている。 母の死後まもなく、私はフリーメーソンのマニラ地区会によってメーソンの資格を与えられた。この資格を受けるに当たって、私は次のように述べた。 「フリーメーソンの基礎は道義心であって、この道義心とは歴史上の出来事を振り返ったり、宇宙の偉大な驚異的現象を観察したりすることから人間の心に植え付けられる道義心ではなく、人間性そのものの発露としての道義心である。…中略… フリーメーソンは世界で最も古い団体であり、…そのおきては愛国心と兄弟愛を教え、高い慈愛の心を求め、善良で親切で恵み深いものはすべて奨励し、残酷で悪意に満ち、抑圧的なものはすべて排する。そ
米西戦争から米比戦争 1898年2月、キューバの港ハヴァナで何者かにメイン号が爆破されて多くの死者が出たことをきっかけに、「メイン号を忘れるな!」(リメンバー・ザ・メイン)の戦争国民標語はたちまち全米を風靡して交戦ムードが高まり、アメリカは4月に正式にスペインに対して宣戦を布告した。この戦争を「米西戦争」と呼ぶが、この戦いは8月に終わってスペインが敗北し、アメリカはカリブ海及び旧スペイン植民地に対する管理権を獲得した。 エミリオ・アギナルド ところが、それまでスペインの植民地であったフィリピンでは、1896年8月以来フィリピン人たちがスペインからの独立を求めて武器を執って戦っていた。1898年に米西戦争が始まったのちアメリカはフィリピンに派兵し、独立運動の指導者エミリオ・アギナルドに、戦争勝利の暁には独立させると約束して背後からスペイン軍を襲わせている。1899年1月にアギナルドは一応軍事
笠置寺(かさぎでら)は京都府の南東部にある標高二百八十九メートルの笠置山の山上にある寺で、この寺の境内の修行場をめぐるのが面白いと聞いていたので、先日チャレンジして来た。結構楽しかったので、今回は笠置寺の歴史を交えながら修業場のレポートをすることとしたい。 最初に寺へのアクセスについて一言書いておきたいのだが、笠置寺のホームページには「車でお越しの場合、カーナビ設定は『かさぎゴルフ倶楽部』での設定が便利」と書いてある意味が分からず私の車のカーナビの指示通りに山上の駐車場を目指し、笠木山添線から登山口で折れて笠置山に登る道に入ってしまった。この道はかなり細く、カーブが多くて、対向車が来るとすれ違うのに苦労することになるのであまりお勧めできるルートではない。369号線経由にしろ163号線経由にしろ、登山口からの山道は避けて、『かさぎゴルフ倶楽部』を通って、山上駐車場を目指す方が運転が楽である。
月ケ瀬梅林 そろそろ梅の花が見ごろを迎えたので、二月二十八日に月ケ瀬梅林から柳生の里を散策し、その後柳生街道沿いの寺社を訪ねてきた。 月ケ瀬梅林入り口 月ケ瀬梅林は奈良県の北東の端にあり、京都府や三重県の県境に近い場所なのだが、平成十七年(2005年)の町村合併により奈良市に編入されている。奈良市内とはいっても、奈良市の中心部からはかなり遠くて公共交通機関で行くことは難しく、殆んどの観光客がマイカーか旅行会社の企画した観光ツァーでバスで訪れる場所である。 月ケ瀬梅林 梅の品種園 旧村役場であった月ケ瀬行政センターに車を駐めて、一目八景、帆浦梅林、梅の品種園を往復する一般的なコースを歩いてきたが、月ケ瀬梅林はほかにも天神梅林、鶯谷梅林、こけいし梅林、一目万本など多くの梅林がある。芭蕉句碑が一目万本にあるようだが、昭和32年に刊行された名勝月ケ瀬学術調査団 編『名勝月ケ瀬』によると、芭蕉の時代
勝利の宣伝 前回に引き続きGHQ焚書である中野五郎の『敵国アメリカの戦争宣伝』の内容を紹介させていただく。 日本軍の真珠湾攻撃直後にルーズヴェルト大統領がどのような発言をしていたかについて、本書には以下のように記されている。 日米開戦直後、ルーズヴェルトはアメリカ国民に向かって、 『わがアメリカ的文明の救われることが確実となるには、なお二年乃至三年を要するであろう』 と楽観論を戒めておきながら彼は自ら、 『地球上より日本を抹殺する。』 『日本の武装解除と日本国民の懲罰を行う。』 と世界に向かって宣言したのであった。…中略… アメリカの勝利の宣伝はアメリカ人の世界的優越感に根ざしているだけに、ルーズヴェルトの煽動宣言をまたずとも実に一億三千万の大衆の腸に滲み込んでいる。例えば、真珠湾の惨敗以来連戦連敗の暗澹たる日の続いた昭和十七年春、ギャラップ世論調査によれば『戦争はいつまで続くか?』との質
前回に引き続き中野五郎の『敵国アメリカの戦争宣伝』の内容の一部を紹介させていただく。今回は二回目で、昭和16年(1941年)12月8日未明(アメリカ時間では12月7日午後)に行われた真珠湾攻撃に対して、アメリカではどのように報じられ、ルーズヴェルトはどのように動いたかかということについて、この本にどのように解説されているかを中心にまとめてみることとしたい。 日米開戦の謀略宣伝 12月7日の午後中野五郎はワシントンの中央停車場に着いたばかりであったのだが、その日の出来事について以下のように述べている。 間近に近づいたクリスマスの七面鳥の夢を楽しんでいる如く、官庁ばかりの町の日曜の午後は眠ったように静まり返って、寒気はさすがに凛冽であったが、目にしみるような冬晴れの青空には白聖の議事堂の巨大なドームが美しく輝いて、いかにも平和な光景を呈していた。私はこの印象を一生忘れないであろう。それは戦争を
アメリカでその戦争宣伝の実態を見て来た中野五郎 宣伝戦関連のGHQ焚書をあたっているときに、中野五郎 著『敵国アメリカの戦争宣伝』という本が目に入った。著者中野五郎は昭和5年に東京帝国大学法学部を卒業後東京朝日新聞社に入り、社会部、仏印特派員を経験した後、昭和16年(1941年)1月にニューヨーク特派員となったが、同年12月8日の日本軍による真珠湾攻撃で太平洋戦争がはじまり、その直後にワシントンで秘密警察に逮捕された。そののち半年ほど抑留の身となったが、17年8月に第一回交換船*で無事帰還を果たしている。 *交換船:第二次大戦勃発後交戦国や断交国に取り残された外交官、駐在員、留学生などを帰国させるために運行された船。 中野五郎 『敵国アメリカ通信 続(開戦後の巻)』より この本のはしがきで著者はアメリカの宣伝力について、以下のように述べている。 敵国アメリカは世界一を呼号する資源力と資本力
さらに強くなった排日宣伝と年々減少していった対支輸出 前回は昭和8年の「宣伝戦」に関する新聞記事を採り上げさせていただいたのだが、今回は昭和9年以降の記事をいくつか紹介させていただく。 昭和8年にわが国は国際連盟を脱退したのだが、その後欧米列強の排日宣伝は強まるばかりであった。 国際連盟脱退以来日本に対する列強の思想、政略戦はいよいよ猛烈に露骨となって来た。 先ず露国の対日赤化工作は我が国家組織を破壊し一朝有事の際祖国敗戦主義を以て国内を攪乱せんとするもので、ハバロフスクを始め欧露の各無電台より猛烈な排日放送を行うと共に、我が国内に於ては第三インターを通じ所謂左翼分子を踊らしてその策動を続けて居り、過般の浜松楽器争議に於て露国大使館員の手を通じ一万円の赤化資金がばらまかれた事実が最近に於て明かとなっている。 次で支那をみるに日支関係好転説を唱える者もあるが、南京の無電台は露のハバロフスクに
日本を孤立化させる戦略 前回に引き続き「宣伝戦」に関する記事を採り上げていきたいのだが、今回は昭和8年の記事をいくつか紹介させていただく。この時代のわが国の新聞社は、今とは違ってどこかの国に忖度するようなことなく、堂々と「陰謀」という言葉を用いている。 南京本社特電【十二日発】米露両国の介入した日支関係は真に憂慮すべき重大時期に直面するに至った。即ち張学良は対内的立場上すでに蒋介石と一蓮托生を決意し、蒋は軍費、多量の軍需品を張に急送しつつあり、これは張をして北支一帯の防備を固めさせ、長期対日抵抗を命ずるに至ったものである。 また米国から資金を得た支那は日本を陥れるため、北平、天津、上海、南京、広東など重要都市の外国人方面に向って日本の逆宣伝を開始し、太平洋問題の幻影に悩む米国は支那を通じて過去一年間日本牽制に憂き身をやつしていたが、あくまでスチムソン・ドクトリン*を実現するため山海関事件*
第一次上海事変 前回は「宣伝戦」に関わる昭和6年の新聞記事を拾ってみたのだが、今回は昭和7年の記事をいくつか紹介させていただくことにしたい。 この年の1月に租界(外国人居留地)のある上海で日支の衝突(第一次上海事変)が起きている。上海には日本資本の工場などが多かったのだが、満州事変勃発直後に「上海抗日救国連合会」が組織され、ストライキが敢行され、租界には抗日ポスターが貼られ、学生や労働者による集会が頻繁に開催されて「打倒日本帝国主義」が叫ばれていた。そして1月18日には日蓮宗の僧侶と信徒が襲撃されて、一人が死亡し二名が重傷を負う事件が起きた。この事件はアメリカが仕掛けたものであることが、後に大阪朝日新聞記事で報じられている。 【上海特電二十日発】民国日報不敬事件に次で日蓮僧らに対する襲撃により憤慨した上海青年同志会員十数名が、二十日上海租界の三友実業社を襲い遂に巡警と衝突、双方死傷を出した
再び支那の宣伝戦に襲われたわが国 前回記事で、満州事変勃発後直ちに支那は、満鉄を爆破したのは日本であるとの宣伝戦を開始したのだが、国連は支那のために積極的な手段を取らぬことを決議し、支那市場におけるシェア拡大を狙っていた英米も支那が期待したようには動かなかったことを書いた。 上の画像は昭和6年10月2日の東京日日新聞の社説だが、次のように記されている。 宣伝戦では、わが政府は到底支那政府の敵ではない。去る十九日、支那代表が該事件を国際連盟に持ち出した当時、連盟のわが代表者たる芳沢大使の手許に、何一つ情報らしいものが到著していなかったということは、わが政府、わけても外交機関の悠長さを物語る以外に、宣伝戦ではとても支那側の敵でないことを示す適例の一つと見てよい。 しかしながら、この巧妙な宣伝戦以外に、支那側には、これを公然と中外に示し得るような公明な対日政策があるであろうか。宣伝戦が国の外交上
昭和三十年に関東軍の自作自演に書き換えられた柳条湖事件 満州事変は1931年(昭和6年)9月18日に奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖で、日露戦争で大日本帝国に譲渡された南満州鉄道の線路が爆破された事件 (柳条湖事件)を機に日支間の武力闘争がはじまり、関東軍が満州全土を占領するに至る事変を言うが、今日の教科書などの叙述やマスコミなどの解説も概ね同様で、戦争原因となった満鉄線路の爆破は関東軍の自作自演と記されている。しかし当時の記録や解説書では、満鉄線路を爆破したのは支那兵であると書かれていた。もちろん支那は日本兵がやったと主張し続けたのだが、世界的は日本の主張を認めていたのである。 しかしながら、以前このブログで書いた通り、昭和30年に発行された雑誌『別冊 知性』の12月号に、元関東軍参謀の花谷正の名前で「満州事変はこうして計画された」という記事が掲載されたことが契機となって満鉄線路を爆破したのは
支那の排日を仕掛けたのは英米である 前回まで山中峯太郎の『日本を予言す』(GHQ焚書)のなかで、わが国が支那や英米やソ連の宣伝戦、思想戦に振り回されていたことが書かれている部分を紹介させていただいた。今のわが国の新聞とは違い、当時の新聞には各国からわが国に宣伝戦、思想戦が仕掛けられていたことについて数多く報じられているので、戦前の日本人の多くがその点についてある程度理解していたものと考えられる。最初に紹介したいのは第一次世界大戦以降本格化していった支那の排日だが、以前にもこのブログで紹介させていただいたように、当初は英米が仕掛けたものである。 第一次世界大戦中の一九一七年にロシアで革命が起こり、一九一八年三月にソ連新政府はドイツと単独講和を行い戦線を離脱。五月にはアメリカが参戦することでドイツの敗北は決定的となり、十一月に休戦協定が結ばれて、第一次大戦は終戦した。 四年以上続いた大戦で、欧
洗練されていないわが国の宣伝戦対応 ロンドン軍縮会議でイギリスの仕掛けた宣伝戦を報じる大阪毎日新聞 「神戸大学新聞記事文庫」軍事(国防)39-145 「宣伝戦」対策で、連合国主要国は第一次大戦勃発後に対外宣伝のための機関を組織したのに対し、わが国は支那事変勃発後「内閣情報委員会」を「内閣情報部」に格上げした程度で、この組織は対外宣伝ではなく対内宣伝に従事するものであったという。わが国では対外宣伝は「外務省情報部」の担当で、陸軍省の「新聞班」も海軍省の「軍事普及部」その他諸省に宣伝担当部門があったが、主たる業務は対内宣伝であったという。 また外国に対する「宣伝戦」の原則の一つに、相手国によって宣伝内容を変えるというのがあるのだが、イギリスはわが国に対しては、「興奮しやすい日本国民だから、刺激を与えてはならない。」という方針で臨み、支那に対しては「支那人の特性に呼び掛けるように、利害関係から事
中国大陸におけるコミンテルン・ソ連の対日戦略 前回に引き続き山中峯太郎の『日本を予言す』(GHQ焚書)を読み進んでいく。日本の戦後の歴史叙述ではほとんど触れられることのない、盧溝橋事件以降の中国大陸に於けるコミンテルンの動きについて、山中は次のように述べている。 盧溝橋畔から、戦火が河北に挙がった。その直後、コミンテルンは計画していた指令を、中国人民青年団、護綏工作団、反帝同盟などに発して、「冀東除偽団」なる秘密結社を成立させ、中国共産党の有力分子が、これを指導した。この秘密団体の潜行勃発させたものが、残虐なる通州の乱であり、同時に、彼らの宣伝と煽動は、同時に天津市内の奇襲を計画通りに敢行させたのだ。 コミンテルンの秘密指令は、同時に満州へも飛んだ。紅軍匪に軍資と武器をソ満国境から給与し、一方、満州国内鉄道従業員の約一万人に、 「日本は北支*を侵撃し、さらにその戈(ほこ)をソ連に向けて、全
今回紹介させていただくGHQ焚書は、昭和12年に出版された山中峯太郎著『日本を予言す』である。彼の詳しい経歴などは、昨年末に彼の書いた『日本的人間』(GHQ焚書)という本を紹介させていただいた時に書いたので省略させていただくが、彼の著作の十六点がGHQによって焚書処分されており、焚書された点数の多さは野依秀市、仲小路彰、長野朗に次ぐ水準にある。 なぜわが国が第二次世界大戦に巻き込まれたについては、戦後出版された解説書の類を読んでも腑に落ちない人が多いと思うのだが、その理由は、GHQにとって都合の悪い史実を記された本の多くが焚書処分され、そのような史実を語ることが戦後の長きにわたりタブーにされてきたことと無関係ではないであろう。GHQにかなり嫌われた彼の著作に何が書かれていて、焚書された原因がどのあたりにあったかを考えることで、より真実に近づけるのではないだろうか。 山中峯太郎はこの本の序文
古代に日本に渡来したユダヤ人は日本に同化した 今回紹介したいGHQ焚書は中山忠直(なかやま ただなお)という人物の著した『我が日本学』である。タイトルの書かれたページを開くと「本書を二十一世紀に捧ぐ 中山忠直」と書かれており、我々のような二十一世紀に生きる日本や世界の人々に著者の思いが託された書物であることがわかる。しかしながら、この書物は内務省が発禁処分を下し、戦後はGHQが焚書処分したために、この人物については戦後はほとんど知られていない。ウィキペディアには次のように記されているのだが、この解説は彼の本を読まずに書いたことはすぐにわかる。 日本の詩人、著作家。宇宙のイメージを盛り込んだ詩作品などによってサイエンス・フィクション (SF) に連なる先駆的なものと評価されている。マルクス主義を経て、勤皇社会主義と称する極右思想に拠り、さらに日本人=ユダヤ人同祖説に立って天皇はユダヤ人の血
「国立国会図書館デジタルコレクション」の全文検索で何ができるか このブログの読者から時々、「大量の書籍の中からどうやって本をみつけるのか」との質問を受けることがよくある。昔なら何度も図書館に通い分厚い書籍の目次や本文を丹念に読まないとできなかったことが、今ではネット環境とパソコンがあれば、「国立国会図書館デジタルコレクション」の「個人向けデジタル化資料送信サービス」を用いることによって容易にできるようになっている。 例えば「都名所図会」で、京都の五条大橋のことがどのように記されているかを調べたいと思ったときには、昔なら「都名所図会」の復刻本がある図書館に行き、まず目次を開いて「五条橋」がどこにあるかを探し、該当のページを開けて読むという手順になるのだが、令和4年12月21日に「国立国会図書館デジタルコレクション」が全面的にリニューアルされ、「個人向けデジタル化資料送信サービス」を利用するこ
新年 あけましておめでとうございます。 旧年中は拙い私のブログにお付き合いいただき、まことにありがとうございました。 楊谷寺 龍の花手水 何度も訪問して頂いた方や、私の記事にリンクして頂いた方、ランキングの応援をして頂いた方、コメント欄やメールなどで貴重な情報や感想のメッセージを送っていただいた方、また拙著を買っていただいた方、皆さん本当に有難うございました。とても嬉しかったです。 満願寺 仁王門 一昨年の二月以来悪性リンパ腫が悪化し、何度も入退院を繰り返して様々な治療方法を試みましたが、結局完治せず、昨年七月に腸閉塞の後下血したあと緊急入院となり、小腸に残っていた病変部を一メートル近く切除する手術をして八月に退院しました。その後二度PET検査を行いましたが、最近の検査でも消化器官などの悪性リンパ腫が消えているとの診断を得ることが出来ました。血液検査ではいくつかの項目で正常でない値が出てい
最近GHQ焚書の復刻が相次いでおり、原文の表記を尊重しつつ読みやすいように現代仮名遣いに改められたり、旧字体の漢字を新字体に改められて出版されているものも多いので、「国立国会図書館デジタルコレクション」で、戦前・戦中の本が読みづらい方は復刻本の購入をお勧めします。また最近は復刻された本が電子書籍化されているケースが多くなっています。 復刻された本については、このブログで何度か紹介させていただきました。このブログで記事を書いたのちに復刻された本がいくつかあるようです。 倭寇はなぜ元寇のあとから頻発するようになったのか~~倭寇19世紀から11世紀にかけて、九州沿岸地方には外国の海賊による襲撃・略奪を何度も受けた記録が残されている。特に有名な事件が刀伊の入寇であり、13世紀に元寇があって、多くの住民が虐殺され拉致された。倭寇は元寇の復讐との見方があるが、南朝勢力が倭寇に関わっていたという記録もあ
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