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装丁を味わう
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春だからだろうか。 とにかく日中も眠い。 夜は十分に睡眠時間をとっている。 それでも眠いのだ。 この時期になると、 私は体調を崩すことが多い。 花粉なのか。何か別のアレルギーなのか。 それとも、気温の寒暖差によるものなのか。 それはわからない。 今年も少し長い期間、 すっきりとしない体調で過ごしている。 冬が春になると、 多くの人は活動的になるのだけれども、 私の場合は、そうではない。 体調が優れず、家で過ごすことが増える。 5月くらいまでは、そういう期間が続く。 原因はよくわからないけれど、 例年同じような感じだ。 今はとにかく眠い。 毎朝、冬眠から起きたクマのように、 動かない体を無理やり起こしている。 昔はこんなことはなかったはずなのに。 体質が変わってしまったのだろうか。 暖かくなって、気が緩むことが原因なのだろうか。 とにかく眠いのだ。 そういう時期もある。 そう割り切って、やら
便宜上、意見を求められるという機会は多い。 特にビジネスの場では、ステークホルダーに対して「確かに確認した」と言質を取るために意見を求めるということがある。 意見を求める時点で、選択肢はあらかじめほぼ決まっているのだが、あくまでも便宜上確認をしておく必要があるため、確認するのだ。 そういう時に回答をミスしてしまうと、結構大変なことになる。 「沈黙が華」 1対1のやり取りではない場合、そういう場面では意見を述べないことが正解となるケースは多い。 そこで余計な意見を述べてしまうと、そこからまた議論が始まり、決まることも決まらなくなる。 「こうした方が良いのではないか」 先日、私はその便宜上を見誤り、意見を述べてしまうことがあった。 上の人たちの中では、ほぼほぼ決まっていたことに対して、私が意見を述べたことにより、再調整を検討しなければならなくなったようだ。 その時に私は学んだ。 「余計なこと」
驚くほど早い3ヶ月間だった。 気がつくと、3月が終わろうとしている。 そこで私は6年間ブログを続けていることに気がついた。 2018年3月21日は私がブログを始めた日だ。 例年、この日には周年記事を書いていたが、今年は忘れていた。 3月の終わりを意識して思い出す。 そういえば、6周年を迎えていたはずだ、と。 私のブログに対する意識は薄れているのだろう。 見方を変えれば、ブログが当たり前のように生活に根付いているとも言える。 6年ともなると、感慨深いものはない。 特に節目と言える数字でもないのだ。 敢えて表現をするならば、小学校に入学してから卒業するまでの期間だ。 それだけの期間、私はブログを続けてきたということになる。 そう考えると長い期間だ。 私は30代の多くをブログと共に過ごしてきたということになる。 これから先のビジョンは全くない。 私はこれから先、どのようにブログと接していくのだろ
独身の期間は、自分のためだけに生きていれば良かった。 持てる時間の全てを、自らの成長に費やすことができたのだ。 人は成長を実感できないと枯れてしまう。 しかし、その成長している感覚を、他の誰かに委ねることができたならば、自分は成長していなくても、成長した実感を得ることができるのかもしれない。 その最たるものが子供だ。 子供が生まれたら、自分の時間の多くを子供に費やすことになる。 その結果として子供が賢く成長してくれて、そちらで成功体験を掴むことができるのであれば、自分自身の成長は二の次となる。 良いか悪いかは別として、おそらく独身のままでいた方が、自分自身の成長に貪欲でいられるのではないだろうか。 むしろ、自分の成長を突き詰めることくらいしかやることがなくなり、自分を高めることに取り憑かれたような人間になる傾向が強いのかもしれない。 自分1人でたどり着けるところには限界があるのだ。 そこか
衝撃のニュースが世間を賑わせている。 大谷翔平選手の通訳兼マネージャーである水原一平さんが、違法なスポーツ賭博を行なっており、ドジャースを解雇されたとの報道があった。 解雇の直前、チームのミーティングで、本人から「自分はギャンブル依存症だ」とのカミングアウトがあったようだ。 大谷翔平選手への影響はともかくとして、今回は依存症について少し考察したい。 私は過去にこういう記事を書いた。 tureture30.hatenadiary.jp ギャンブル、アルコール、恋愛、ゲームなど、 世の中には多くの種類の依存症があるけれども、 気が付かないうちに、人は何かの依存症に陥っている可能性がある。 そして、私は自分を含む多くの人が、この「成功体験」依存症に該当するのではないかと考えている。 「経験を信仰する生き物」 どうしたって過去の経験に基づき、行動規範を決めて生きるのが人間だ。 失敗から学び、成功を
多くの痛みを引き受けることで、人の痛みを知ることができる。 その繰り返しの中で人は本当の意味で優しくなることができるのだ。 「痛み」を経験していない「優しさ」 どこか薄っぺらい。 苦悩が深ければ深いほど、その薄っぺらさに苛立ちを覚える。 今の時代は、表面的にうまくやることばかりを求められる時代だ。 反射的に、当たり前のように口を突いて出る「優しい言葉」 そこに心はこもっていない。 薄っぺらい「優しさ」。 相手のことを思いやる気持ちが根底にあれば立派だ。 思考を経て、相手に対する思いやりを源泉として発せられる言葉には力がある。 そうではなく、反射的に口から出る優しい言葉。 私たちは、それをコミュニケーションを円滑に運ぶための道具として利用してやいないだろうか。 それが癖になってやいないだろうか。 相手に優しさを向ける時、今一度自分の心と向き合う必要があるのかもしれない。 今向けようとしている
人の思考は千差万別だ。 例えば、「りんごが落ちた」という事象一つとっても、何も感じない人もいれば、逸話の真偽はともかくとして、ニュートンのように世界の真理に及ぶ人もいる。 仕事中に寝ている人を見て「自分は忙しいのに、こいつは暇なのか」とイライラする人もいれば、家庭環境の悩みや病気を懸念して心配する人もいる。 これだけ考え方が多様なのだから、相互理解は難しい。 それでも私たちは、同じ空間で同じチームとして働くことを求められる。 それならば、無理をしてでも、お互いの考え方を「受け入れる」ことはできなくとも、理解しなければならないのだ。 自尊感情の低い人ほど、他人に対してマウントをとりたがる。 他人に対して誇れるものを見つけると、それを拠り所にして自分の価値を認めたがるからだ。 そういう人と接する時の態度として気をつけなければならないことは、その人のプライドを傷つけないようにすることだ。 少しで
今の私の生活が、私の望む未来につながっている。 それを確信できるほど、私は後悔なく生きてなどいない。 とことん自分を追い込んで、「これ以上はできない」というくらい無駄なく生活を組み立てている人ならば、今の自分の生き方が、望む未来につながっているという確信を持つことができるのだろうか。 いや、そうは思わない。 そうやって自分を追い詰める人ほど、「まだまだできることがあるはずだ」という強迫観念に囚われて、自分の「イマ」に満足できないように思う。 要は「心の持ちよう」なのだ。 未来を肯定的に捉えることのできることは、特殊能力なのかもしれない。 未来に希望が待ち受けていると信じていれば、どんな苦難に直面していようとも、未来を信じて前進することができる。 そういう力が私には足りないのかもしれない。 難しいことは考えずに、これだけ頑張っているのだから、今の私を肯定してあげたい。 季節の変わり目だからか
『ALWAYS 三丁目の夕日』シリーズを手掛けた山崎貴監督が満を辞してメガホンを取った意欲作。 後輩から「絶対に見た方が良い」と、あまりにも勧められるものだから、遅ればせながら映画館で見た。 米アカデミー賞で、アジア映画初となる視覚効果賞を受賞。 私が見た直後の一報に驚いた。 庵野秀明監督の『シン・ゴジラ』は、「日本vsゴジラ」の構図だったのに対して、山崎貴監督は、『人間vsゴジラ』を描きたいと語る。 政府からも見放され、自分の大切な人、大切な街を自らの手で守らなければならないということを突きつけられた人々。 極限まで研ぎ澄まされた、純粋な「人間vsゴジラ」を見事に描き切った作品だ。 結論から述べると、見て良かった。 この映画は映画館で観るべき作品だと思った。 初代ゴジラに対するリスペクトが十分に感じられる、昭和の雰囲気漂う世界観。 安易なハッピーエンドでは終わらない、 「それでも生きてい
私はよくブログで「信念は諸刃の剣である」と書いている。 信念を持つことで、自分の生きる道を定めることができる反面、その信念に沿わない対象に対する寛容さを失ってしまう。 イスラム教原理主義者を称するテロリストがわかりやすい例だ。 彼らは、アラーの名のもとに、他国を侵略し、人を殺すことを正当化する。 そこまでは行かなくても、自分の信念を押し倒すために、周りに対して好戦的な人がいる。 彼ら、彼女らは、それをぶつける相手に何を求めているのだろうか。 多くの場合、中途半端な議論だ。 その結果、相手を言い負かして自分が正しいことを証明することが目的だ。 誰かと比較しないと、自分の存在価値を認めてあげることができない。 そんな「エセ信念」の持ち主。 彼ら、彼女らに取って、信念とは自分が人と比べて優れていると証明するための道具なのだ。 本物の「信念」を持っている人は、それを自分の生き方に落とし込むことを目
普通は「努力」している人を見ると応援したくなる。 しかし、自他ともに認める「努力家」なのに、応援したいと全く思えない人がいる。 「努力」の方向性が自慰行為の人。 自分が気持ちよくなるためだけに努力をしている人。 そういう人を見ると気持ちが悪くなる。 もちろん「努力」は自分のためにするものだ。 しかし、あまりにも周りに配慮がなく、周りから認めてほしいとばかりに壮大に自慰行為をされると、どうにも気持ち悪く映る。 上には媚びて、下にはマウントを取る。 それが常となっていると、周りからはどんどん信頼を失っていく。 結局は「人間性」なのだ。 少し前に「ギバー」即ち「与える人」という言葉が流行っていたが、人から搾取するだけの人からは、人がどんどん離れていく。 自分のことが大好き過ぎて、他人は自分を引き立てるための道具だと捉える。 他人からしてもらったことに対して、その場限りの感謝を伝えることがあっても
昨日投稿した記事は2100個目の記事でした。 2000を超えてからも着々と毎日投稿を続けて、先日連続投稿日数も2000を超えました。 もはや節目と言えるかどうかもわからない数字ですが、この100日間の変化を確認します。 2000記事を投稿した時期は、11月の終わりでした。 妻のつわりが大変だった時期だと記憶しています。 そこから私の忙しさは速度を増し、2月までは目まぐるしく過ぎていきました。 今では妻のつわりは落ち着き、出産に向けて順調に進んでいます。 今は少し落ち着いています。 またしばらくすると忙しくなることが予想されますが、今は妻と2人で過ごす最後の期間を享受したいと考えています。 ここ最近は、夫としての私もすっかり板につき、後輩から結婚の相談を受けることがあるくらいです。 あれだけ婚活がうまくいかずに苦しんでいた腐れ童貞の私が、他人の結婚相談に乗るようになったのですから、人生はわか
過酷な2月を経て、3月は少し落ち着きそうだ。 ちょっとした旅行の予定もある。 ひとまず英気を養って、4月以降に予想される大変な日々に向けての精神的な下準備をするための期間となりそうだ。 今年も既に6分の1が終わった。 仕事と家庭との両立。 難しいバランスで綱渡りを迫られる2024年。 前半は準備で後半は実践。 今は着々と準備を進めなければならない。 キャリアにとっても大きな転機となるかもしれない。 実力を身につける時期の終わりは近づいている。 これまでどれだけの経験を積んできたのか。 それを否応なしに求められる年齢となる。 もはやポテンシャルが評価される年齢ではない。 可能性の狭まりを感じる年齢だ。 「ミッドナイトクライシス」 私もそれを感じる年齢になった。 今の時代は本業だけでなく、副業の方で自ら天井を取っ払う人もちらほら出ている。 世間的にもそれを推奨される風潮となった。 国や社会が老
ある動画を見ていて、勉強になったと思うこと。 それが「無利子の分割払いは使うべき」という考え方だ。 私は基本的にほとんどのものを一括で購入している。 それは借金をすることが嫌だからだ。 だから自然と分割払いに対する「負のバイアス」が働く。 手元に支払えるだけのお金があるならば、そこで精算して仕舞えばいいじゃないか。 基本的にはそう考えて生きていた。 しかし、無理しならば分割払いの方がお得と言う動画の根拠を聞いて「なるほど」と思った。 例えばiPhoneの分割払いの場合、36ヶ月の分割となるので、支払いが終わるのは3年後となる。 その間に物価は上がり、私の賃金も今よりは上がる可能性が高い。 つまり、時が経てば経つほどに、相対的に支払い金額の価値が下がるのだ。 もちろん健康で働き続けることができれば、と言うことにはなるが。 私の性格上、お金が余っているからといって、無駄なお金を使おうとは思わな
前の閏日は2020年2月29日でした。 当時はコロナ禍真っ只中。 これから世界はどうなるのかと誰もが思っていた頃。 私は失恋の痛みを引きずりながら悶々としていたようです。 その時の私はどのような記事を書いていたのか。 それを確認してみました。 tureture30.hatenadiary.jp 音楽記事でした。 365日では足りない。 毎日あなたのことを考えている、と言う切ない乙女心を歌ったHYの名曲です。 それを閏年に持ってくるあたり、昔の私は凝った記事を書いていましたね。 この曲で、別の機会にも記事を書いていました。 tureture30.hatenadiary.jp 心に刺さる名曲。 今年は一日多く、想いを伝えるチャンスがあります。 一日多く、幸せな時を刻むことができます。 一日多いことをポジティブに捉えて、 今年一年間を前向きに歩んでいきたいところです。 早くも2月が終わります。
「やらなくても生きていけること」に対するアプローチ。 そこに「主体性」があるかないかで、経験値は大きく変わる。 「やるべきこと」と捉えるのか、それとも「やらなければならないこと」と捉えるのか。 それが「役割と使命」の違いなのかもしれない。 生きている中で、やらなければならないことは当然ある。 生活のため、家族のため、今の環境に対する責任を全うするためにやらなければならないこと。 それ以外の時間をどう捉えるのか。 それで人生の姿勢が変わるのだ。 「休む」時間にも主体性を持つ。 自分の体には「休むこと」が必要なのだと捉えて、何においても休むための時間を確保する。 それはそれで主体性のある時間の使い方だと思う。 私は私の時間を自分の意思で使いたい。 例え、それが「やらなければならないこと」だったとしても、自分のために時間を使えるように主体性を持って取り組みたい。 そのためには、ポジティブであり続
大変な1週間だった。 ようやく家でゆっくりできるようになった。 明日からはまた仕事だ。 あまりゆっくりと休む余裕はなさそうだ。 ここしばらく毎年2月は忙しい気がする。 そういう時期なのだろうか。 3月は少しゆっくりしたい。 気がつくと2月が通り過ぎていく。 今年は閏年で29日まである。 夏季オリンピックイヤーだということを思い出す。 パリオリンピックだ。 前回の東京から3年。 私の人生は大きく変わった。 あの時には想像していなかったスピードで、どんどん私は望む未来を手に入れている。 3年もあれば人生が変わるのだということを実感する。 3年後の私はどこで何をしているのだろうか。 今の段階では思いもしないところで、思いもしないようなことをしているのかもしれない。 希望を持ち続けたい。 どんな環境にいたとしても、私は私の望む未来を手に入れて、望む方向へと進み続けている。 そんな実感と共に生きたい
私は寝るときに明かりを「消す派」だ。 睡眠時は可能な限り暗いほうが、 睡眠の質が高まるというデータがあるらしい。 だけれどもここ最近寝苦しいから、 豆球をつけて寝てみた。 すると不思議なことに夜中に目覚めることがなくなった。 心理的な作用だろうか。 それともたまたまだろうか。 プラセボだとしても効果があるならばそれでいい。 「暗闇は死の象徴」 無意識が訴えかけてくるのだ。 「ビクッ」となって目覚めるとき、 大抵は神経過敏状態になっている。 心が落ち着かずに、 窓を開けて外の風にあたりながら、 しばらく心を落ち着かせる。 それでも落ち着かなければ、 寝巻のまま自転車に乗って少しブラブラする。 睡眠が苦手になってしまったのだ。 睡眠が得意な人ならば、 明かりを消したほうが睡眠の質が上がるのだろう。 だけれども、 睡眠が苦手ならば明かりをつけたほうがいいのかな。 しばらく実験してみようと思う。
2月12日にミュージックビデオが公開された宇多田ヒカルの新曲。 月9ドラマ『君が心をくれたから』の主題歌らしい。 ドラマは見ていない。 何の予備知識もなくミュージックビデオを見たが、感想はまさに「天才爆発」である。 宇多田ヒカルの曲には、根源的に人の心に訴えかける何か不思議な力がある。 歌詞はよくわからないし、映像のテーマもよくわからない。 それでも自然と感動が生まれるのだから不思議だ。 彼女は、人として経験を見て、人として深く生きて、人として人のことを見ているのだろう。 だから紡ぎ出される曲には、不思議な力が宿るのだ。 彼女の曲を聴くと、芸術の真髄に触れたような気持ちになる。 アーティストとはこういう人のことを言うのだなと、手放しで賞賛できる。 そんな存在だ。 宇多田ヒカル『何色でもない花』
そういうお年頃なのだろうか。 なかなか疲れが取れない。 ギラギラした若手たちのギラギラした視線を痛く感じる。 かつては私もどちらかといえばギラギラしていた方だった自覚はあるけれど、今は若手を見て「そこまで頑張らなくても良いのに」と感じるスタンスに変わってしまったのだ。 「やる気が希薄」であることに対して責めるような視線。 それを向ける側だった私は、向けられる側に変わった。 多くの人にとって「余白」を持たずになりふり構わず突き進むことのできる期間は短い。 宮崎駿監督が『風立ちぬ』で登場人物に語らせていた「創造的人生の限界は10年」という言葉が印象深い。 誰しもに、いつまでも情熱を持って、いつまでも努力を続けられる、そんな魔法のような期間が存在するのだろう。 その魔法にかかられたまま、体の悲鳴に気が付かないでいると、どこかでオーバーヒートしてしまう。 そういう経験を経て、多くの人の「創造的人生
ある種の地位を確立してしまうと、 多くの場合「傲慢さ」が顔を出す。 それを如何に飼いならすか。 それが地位を手にした者の、 最初にして最大の課題なのだろう。 「人格者」と搾取される「お人よし」 そこには共通点がある。 根底にあるものは「謙虚さ」だ。 「謙虚」なだけでは搾取されるけれど、 「謙虚さ」がなければ「暴君」と化してしまう。 バランスが大事なのだ。 私が思うに、 大事なことは「主体的な謙虚さ」だ。 要は「自身の成長のために教えを乞う」という姿勢を忘れないこと、 「受動的な謙虚さ」 与えられたことに対して、 不平不満をこらえて取り組む。 そういうことが必要な場面もあるけれど、 それがつけ入る隙になってしまうと、 「こいつには押し付けても大丈夫」 そうやって「搾取」の対象となる。 それとは逆に、 「主体的な謙虚さ」 それをぶつけられた側からすれば、 「必要とされている」「存在を認められて
歳を取れば取るほどに、時が過ぎるのが早く感じる。 1年があっという間だと感じるようになる。 時が過ぎる感じ方の早さを法則で表したものがあるようだ。 それが「ジャネーの法則」である。 昼休みにテレビを見ていたら紹介されており、気になったので調べてみた。 例えば、50歳の人間にとって一年の長さは人生の50分の1ほどですが、5歳の人間にとっては5分の1に相当します。つまり、50歳の人にとっての10年間は、5歳の人にとっての一年間にあたり、5歳の人にとっての一日は、50歳の人にとっての10日にあたることとなります。 (出典tenki.com<https://tenki.jp/lite/suppl/rsakai/2018/11/10/28569.html>) この記事によると、5歳の時と比べて、50歳の人は10倍の体感で時が流れていく。 20歳の時と比べても、40歳の人は2倍の体感で時が流れていくこ
しばらくその経験から離れてしまうとリセットされてしまう。 自転車の乗り方とは違うのだ。 語学と同じように、継続しないとスキルは失われていく。 うまく行かなかったときの反省が大事だ。 うまく行かなかった点を振り返り、次に活かすことが必要だ。 まだまだ先は長い。 これから先も私は同じことを何度も経験することになる。 それならば、一つ一つの挑戦から学び、次の挑戦に活かすしかないのだ。 なかなか落ち着くことはない。 元々そういうタイプの人間ではないのだが、なぜだか人前に立つ機会ばかり増える。 「話が上手くなりたい」 そのためには場数を踏み続けるしかない。 私の人生は挑戦の連続だ。 それを受け入れて生きるのしかないのかもしれない。 私が望んでそっちに進んでいるのだから。
大きな変化と共に生きる2024年。 2月を迎えた。今月は忙しい。 何が忙しいのかと問われると、特別リソースを取られるイベントがあるわけではないが、中規模のイベントが散りばめられているのだ。 毎週土日は落ち着かない。 休みであってないようなものだ。 今月を乗り越えれば落ち着くのだろうか。 それはわからない。 いつだって、一つ何かを乗り越えるたびに、また新しい課題が浮上する。 果たして私の体は保つのだろうか。 それはまだわからない。 今はまだ、なんとか乗り越えることができる。 それは私に自由な時間があるからだろう。 その自由な時間を大きく削らなければならなくなったら、私は果たしてやっていくことができるのだろうか。 夫婦関係は子供が生まれてからが勝負。 それまでの共同生活など、まだまだ序の口なのかもしれない。 子供が生まれて、子供が中心の生活を迎えた時に、お互いの関係性を見直すことになる。 そこ
昨日投稿した記事で、2000日連続更新となりました。 まずは、この100日間の変化を確認します。 1900日連続更新を達成した時期は、昨年10月下旬でした。 そこから11月、12月を経て、1月も終わろうとしています。 その間、私に生じた変化。 ・出張に行った ・仕事が少し落ち着いた期間だった ・新しい年を迎えた こうして振り返ると、あまり変化のない100日間だったのかもしれません。 しかし、前半は「つわり」によって妻の体調が優れずに、看病をしていました。 「自分に子供ができた」ということを意識する機会が増え、日に日に意識は高まっています。 100日後の5月上旬には、まだ生まれていない予定ですが、いよいよといった時期になります。 その時の私は、どのような心境で、どのように過ごしているのでしょうか。 新しい年度を迎えて、相変わらず忙しく過ごしているのかもしれません。 今年の私は間違いなく「勝負
ほら、足元を見てごらん。 それがあなたの歩む道。 ほら、前を見てごらん。 あれがあなたの未来。 私たちは、未来に向かって進んでいる。 例え、それが望むものであってもなくても、 私たちは前を向いて進み続けるしかないのだ。 シンプルな言葉が命にグサリと刺さる。 そんな歌詞だ。 私は私の足で一歩一歩。 歩みを進めていく。 そこには希望しかない。 そう信じて、前に進み続けるのだ。 たとえレールが敷かれていなかったとしても、 道が見えなかったとしても、 踏み出した足の先に道ができるはず。 そう信じて、前に進み続けるのだ。 kiroro『未来へ』
私は毎年50冊くらいの本を読んでいる。 気分によって読む本を変えており、複数の本を同時期に併読することがほとんどだ。 ここしばらく、私は小説ばかりを読んでいる。 少し前は新書やビジネス書のようなものを読む時期もあったけれども、今の私はそれらに気持ちが向かない。 過去の芥川賞受賞作を読み直してみたり、Amazonで気になるタイトルや作家の本を見つけては読み繋いでいる。 そんな私の心境を分析してみると、おそらく私は「現実逃避」したいのだろう。 小説を読むと、別の世界を体感できる。 いわば現実と向き合う必要なく、感情を動かすことができるのだ。 今の私は客観的にみて「幸せ」に映るだろう。 過去の自分から見た私も、間違いなく「幸せ」だ。 転職をし、妻と出会ってからの私は、間違いなく過去の私が望む未来を手に入れている。 しかし、人はいつだって無い物ねだりなのだ。 少なくとも今の私は、人生が固まっていく
ミュージックビデオが秀逸だ。 1人から始まり、その1人が心を与えることで仲間が増えていく。 最終的にはBUMP OF CHICKENのメンバーと同じ4人。 藤原基央から始まって、志を同じくして長い時を共に歩んできたメンバーの絆を表しているのだと感じた。 いろいろあったけれども、彼らは互いを信頼しているのだ。 それを宣言するかのような楽曲に胸が熱くなる。 BUMP OF CHICKENは、これからも4人で歩みを進めていくのだ。 BUMP OF CHICKEN『Sleep Walking Orchestra』
ひっちゃかめっちゃかになっていた生活。 それが少し落ち着いてきた。 そうすると、やるべきことが見えてきて、後はそれに取り組むだけとなる。 先の見通しが立たない時ほど不安なものはない。 翌日もどうなるかわからない。 その繰り返しの中で生きていると、自然と先のことを考える余裕はなくなり、その日暮らしを繰り返すことになる。 結果として、主体性は失われて惰性で生きるようになるのだ。 「そうせざるを得ない時期」があることは仕方がないけれども、いつまでもそのままでいるわけにはいかない。 どんなに見通しが立たなかったとしても、それなりに生活を整えていくしかないのだ。 子供が生まれたら、今よりもずっとコントロールの効かない日常になるのだろう。 3人の子供を育てた先輩の話を聞くと、10年くらいは何をしていたか記憶がないくらい忙しかった、とのことだ。 当然自分の時間なんてほとんどない。 とにかく一日中動き回っ
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