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社会的弱者の友として―賀川豊彦の生涯(13)国民総ざんげ運動
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社会的弱者の友として―賀川豊彦の生涯(13)国民総ざんげ運動
1941(昭和16)年12月8日。突然ラジオは、日本海軍がハワイの真珠湾を攻撃したニュースを伝え... 1941(昭和16)年12月8日。突然ラジオは、日本海軍がハワイの真珠湾を攻撃したニュースを伝えた。いよいよ太平洋戦争の始まりである。日本国内は異様な熱気に包まれ、右翼団体が力を伸ばしてきた。 「むすび会」や「みくに会」は賀川豊彦の平和主義を嘲笑し、攻撃を加えた。ある評論家は彼のことを反戦主義の売国奴と非難し続けた。 「賀川を殺せ! 彼の唱える隣人愛は国を売るもので、国体の本義に反するものである」。街頭にはこのようなビラが貼られていた。軍部当局の彼に対する監視は一層厳しくなり、彼の著作や小説の出版を引き受けてくれる所はどこもなくなった。 本土の空襲はますます激しさを増し、東京には次々と爆弾が投下された。彼が長年にわたり力を注いできた「イエス団」の施設も「本所キリスト教産業青年会」も「四貫島セツルメント」も、そしてわが子のように大切に育ててきた「江東消費組合」ほか幾つかの生活協同組合もことご