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宇治平等院で命尽きた源頼政 「遅くはないさ、はじめればいい」という口ぐせ - こうへいブログ 京都案内と文章研究について
その大義名分 治承4(1180)年、後白河法皇の皇子・以仁王(もちひとおう)が全国の源氏に対し、平... その大義名分 治承4(1180)年、後白河法皇の皇子・以仁王(もちひとおう)が全国の源氏に対し、平家追討の令旨(りょうじ)を出しました。 令旨とは、皇太子や親王の命令を記したものですが、上皇の命令である院宣(いんぜん)や、天皇の命令である勅(ちょく)よりも格は下がります。 ただ、以仁王は天皇の子であるのに「親王」ではありませんでした。 以仁王の兄である守人(もりひと)親王も、弟の憲仁(のりひと)親王も、一度は天皇の位にまで就いているのに対して、次男の以仁王だけが親王にすらなれていないのです。 その不遇の以仁王に「今こそ平家を討つべきだ」と追討令を出すように説いたのが、清和源氏(武家源氏)の最有力者であった源頼政(よりまさ)です。 平家の独裁に対する諸国の源氏たちの不満は、もはやピークに達している。今、皇族のしかるべき人物が追討令を出せばその大義名分に彼たちは必ず立ち上がると、説得にあたった




2022/06/05 リンク