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毛利敬親と島津斉彬は、まるで正反対だった? - みずおのアレコレ話
薩摩藩の島津斉彬と長州藩の毛利敬親は、まさに対照的な殿様でした。 島津斉彬は、カリスマ的なリーダー... 薩摩藩の島津斉彬と長州藩の毛利敬親は、まさに対照的な殿様でした。 島津斉彬は、カリスマ的なリーダーシップで薩摩藩を近代化せさ、幕府に対抗しようとしました。 一方、毛利敬親は家臣の言い成りで、リーダーシップのかけらもない人物でした。 あだ名も「そうせい候」といわれ、家臣が意見を述べると、「そうせい」と言って、自分の考えを入れず承諾していたのです。 幕末、斉彬は49歳で、突然、病死します。暗殺の疑いが濃いです。しかし敬親は、明治維新後も生きのびて、左近衛権中将に任ぜられました。 維新後、「そうせい」と家臣の言い成りになっていなければ、自分は暗殺されていただろう、と敬親は語っていたそうです。 まるでリーダーシップの有無が、この二人の殿様の運命を決めたかのようです? 毛利家の殿様は、なぜ権力が弱かったのか 戦国時代、安芸国高田郡吉田荘の3000石から5000石ほどだった毛利氏を、中国八カ国の約17
2018/04/08 リンク