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【静岡古城をゆく 井伊家躍進の礎】新野家再興(御前崎市新野) 261年…藩祖の恩人に報い
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【静岡古城をゆく 井伊家躍進の礎】新野家再興(御前崎市新野) 261年…藩祖の恩人に報い
彦根藩の第13代藩主・井伊直中には15人の男子がいたという。幕末の桜田門外の変で討たれた実子、井... 彦根藩の第13代藩主・井伊直中には15人の男子がいたという。幕末の桜田門外の変で討たれた実子、井伊直弼(1815〜60年)は十四男で、文化5(1808)年3月、十男として生まれた茂之進は、生後間もなく筆頭家老の木俣守易の養子に入り、中守と名乗った。 6代前の木俣守勝は徳川家康に仕え、天正10(1582)年、本能寺の変に伴う伊賀越えで、井伊直政とともに岡崎帰国を手助けした。直後に勃発した天正壬午の乱に際しては、滅亡した旧武田家臣の招聘(しようへい)を家康から命じられ、それに成功すると、旧家臣たちを直政の傘下に組み入れ、「井伊の赤備え」として名をはせた。 木俣守勝の夫人は「井伊家を救った情けの武将」と評される新野左馬助親(ちか)矩(のり)の娘・栄光大妹(六女・再婚)。彦根龍潭寺蔵の『新野左馬助家系図』によれば、左馬助の女子は8人で男子は末子の甚五郎一人であったが、「北条家属シテ小田原籠城節戦死