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筒井順慶(8)波乱の生涯。山崎から賤ケ岳、小牧・長久手、そして迎える最期のとき。 - 歴史好きの大和徒然草子
皆さんこんにちは。 前回は本能寺の変から山崎の戦いまで、時局の帰趨を決した筒井順慶の動きを詳しく紹... 皆さんこんにちは。 前回は本能寺の変から山崎の戦いまで、時局の帰趨を決した筒井順慶の動きを詳しく紹介しました。 www.yamatotsurezure.com 織田家中の争いの中で 秀吉政権下の順慶 波乱の生涯 今回は山崎の戦いのその後の順慶をご紹介します。 織田家中の争いの中で 山崎の戦いに参陣しなかったことで、京都醍醐での接見の際には遅参を羽柴秀吉から厳しく叱責された順慶ですが、その後は天下人への道を突き進む秀吉に接近していくことになります。 6月27日には、織田家のその後の体制を取り決める清須会議が開かれますが、順慶もその他の織田家家臣たち同様、清州城に詰めて待機していました。 清須会議の後まもなく、秀吉から順慶は「和州一国一円」の支配を認められます。 そして7月11日、順慶は養子としていた小泉四郎を人質として秀吉のもとに送り、明確に秀吉へ臣従の姿勢を取ります。 この小泉四郎は、順慶