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大和国人一揆・赤沢朝経の猛威~大和武士の興亡(8) - 大和徒然草子
応仁の乱以前から長らく続いた細川氏ー畠山尾州家ー筒井氏という同盟関係は、1493(明応2)年に勃発した... 応仁の乱以前から長らく続いた細川氏ー畠山尾州家ー筒井氏という同盟関係は、1493(明応2)年に勃発した明応の政変で細川政元が尾州家の畠山政長を切り捨て、総州家の義豊と連携したために完全に崩壊しました。 東軍勝利で終わった応仁の乱の結果とは裏腹に、河内、大和で旧東軍勢を駆逐した総州家と大和の越智家栄、古市澄胤は、明応の政変によって幕府との連携を深め、全盛期を迎えます。 しかし、その後河内では総州家内部の家臣同士の争いが起こり、大和では越智氏と古市氏の関係が次第に険悪化。 こうした総州家の綻びを見逃さず、1497(明応6)年に明応の政変で没落後に紀伊で反撃の機会をうかがっていた政長遺児の畠山尚順(尾州家)がついに挙兵し、河内へと進撃を開始します。 尚順の挙兵に呼応して、大和でも筒井氏が挙兵すると、叔父・成身院順盛の補佐を受けた若き当主・筒井順賢は、不和で連携の取れない越智家栄、古市澄胤らを打ち
2023/07/28 リンク