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細川京兆家の分裂と大和国人一揆の終焉~大和武士の興亡(9) - 大和徒然草子
大和国内は南北朝の動乱以降、国人同士の争いが絶えず、領土の奪い合いは日常茶飯事でした。 しかし、支... 大和国内は南北朝の動乱以降、国人同士の争いが絶えず、領土の奪い合いは日常茶飯事でした。 しかし、支配地の移動はあくまで興福寺・春日大社の衆徒・国民間の中だけに限られてきました。 しかし1497(明応6)年、畠山尚順は敵対する畠山義豊に与した大和国人・万歳氏、布施氏の領地を攻め取ると、闕所となった両氏の所領を配下に与え、他国衆による大和への侵略は、興福寺と大和国人たちに大きな衝撃を与えます。 そして1499(明応8)年に始まる細川政元被官・赤沢朝経による大和侵攻を目前にして、ついに南北朝時代以来の宿敵同士である筒井氏、越智氏が同盟。 赤沢朝経に与した古市氏を除くほぼすべての大和国人が一揆を結んで他国衆に対抗します。 大和国人一揆は団結して赤沢朝経率いる京衆に立ち向かいましたが、2度に渡る侵攻は京衆の勝利に終わり、1506(永正3)年に国中(くんなか=奈良盆地)一帯は赤沢朝経の支配下に入りまし


2023/08/04 リンク