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会話術
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モーツァルトが僅か35歳で亡くなったのが、今から229年前の1791年12月のこと。そして、その2か月前に完成したのが《クラリネット協奏曲》です。彼による協奏曲のジャンルで最後の作品となったこの曲は、親しい友人のクラリネット奏者シュタートラーのために書かれたといわれます。純粋、純白で透明感のある曲想から、モーツァルトの「白鳥の歌」と呼ばれることもあるそうです。 クラリネットという楽器が、面白いというか不思議だと思うのが、同じ木管楽器のオーボエは低音から高音にいたるまでほぼ同じ音色であるのに対し、クラリネットは低・中・高それぞれの音域で音色が大きく変わります。知らない人が聴いたら別の楽器が鳴っているのかと思うほど(私も最初そう思っていました)。作曲当時、クラリネットはまだ登場して間もない新しい楽器だったそうですが、その特徴を駆使し、まことに表情豊かな曲に仕上げているのは、さすがモーツァルトで
ショパンは亡くなる前に「私が死んだらモーツァルトのレクイエムで送ってほしい」と言い残し、実際の葬儀ではその希望どおりにモーツァルトのレクイエムが奏でられるなか、多くの参列者に見送られたといいます。ショパンはさぞや心満たされつつ、安らかに天国に召されたことと思います。皆さまには、ご自分の葬儀で流してほしいと思う音楽がおありでしょうか、あるとしたらどんな音楽でありましょうか。 ところでレクイエムは「安息を」という意味の鎮魂歌であり、キリスト教の死者のためのミサとしてすでに中世に成立していました。本来はそうした実用の音楽だったわけですが、その後、オーケストラを伴った芸術音楽としても作曲され、数々の作品が生み出されました。その中で三大レクイエムとして知られるのが、モーツァルト、ヴェルディ、フォーレの作品でありますね。 そして、ここで触れたく思いますのが、フォーレのレクイエムです。フォーレはドビュッ
私たち人間の脳みそは「おぎゃー」と生まれた瞬間に神経細胞の数が一番多くて、間もなくドーンと減っていくというじゃありませんか。3歳になるまでに実に約70%の神経細胞を排除してしまうそうです。3分の1しか残らない、ちょっと愕然としますね。ただし生き残った30%はその後も変化しないそうです。健康ならば100歳を超えても、その数を保持し続けるって。 てっきり加齢とともに徐々に減っていくのかと思っていましたけど、そうじゃないんですね。しかし、なぜそんなふうになっているのか。この理由が凄いです。赤ちゃんはどんな世界に生まれてくるか分からない。そのため、生まれおちた環境に順応すべく可能な限り多くの神経細胞をもって生まれ、3歳までの間に無用なものを捨てるというんです。まさに生命力の力強さ、神秘ですね。 しかし、考えてみれば70%も無くなるなんて、あまりにもったいない話です。神経細胞を少しでも多く残すにはど
音楽ファンの皆さまは「ハイレゾ音源」をお聴きになっておられるでしょうか。CDを圧倒的に上回る情報量をもち超高音質というハイレゾ。登場時にずいぶん注目されたものですから、私も音楽配信サイトで何曲か入手して聴いたことがあります。ところが、恥ずかしながら私の耳ではその素晴らしさがあまり実感できなかったんです。どこがどう違うんだ?って感じで、値段も高かったですからね、ずいぶんがっかりしました。 しかし一方では少し安心もしたんです。だってハイレゾ音源の音質がCDを遥かに凌駕するようなら、それまで持っていたCDがすべて陳腐化、ガラクタ化してしまうじゃないですか。そうならなくてよかった。それから、中にはCDをアップサンプリングしただけの「なんちゃってハイレゾ」も多く存在しているといいます。その事実を知って、にわかにハイレゾ商法そのものにも猜疑心を抱いた次第です。以後、全く手を出しておりません。 そしたら
古今東西のオーボエ協奏曲の中でもとりわけ有名なのがモーツァルトの《オーボエ協奏曲》ですね。オーボエ奏者がプロのオーケストラの入団試験を受ける際には必ずといっていいほど演奏される曲だそうです。 ただし、この《オーボエ協奏曲》と《フルート協奏曲第2番》のケッヘル番号は、どちらも「314」で同じなんですね。すでに1777年に作曲されて評判を呼んでいた《オーボエ協奏曲》を1音上に移調したのが《フルート協奏曲第2番》だといわれています。独奏部分に細かな違いはあるものの、基本は同じ曲。 何だかお手軽な感じがしないでもないですが、モーツァルトはフルートが大嫌いだったといわれます。父にあてた手紙の中で「我慢ならない楽器のために作曲していると頭が朦朧となるのです」と述べていて、けっきょく、注文を受けたフルート曲を旧作の代用で間に合わせたということでしょうか。よっぽどフルートが嫌いだったんですかね。 ところで
ベートーヴェン最後の交響曲である《第9番》が、1824年に初演されたときのエピソードは有名ですね。すでに完全に聴力を失っていたベートーヴェンが指揮台に立ったものの、楽団員たちは彼の横に立つ副指揮者を見ながら演奏。終わると聴衆は大喝采の拍手を送りましたが、ベートーヴェンには聞こえず、全く気づかなかった。見かねたアルト歌手が彼の手を取って観衆の方を向かせ、盛大に拍手をしている聴衆を目にしたベートーヴェンは、喜びのあまり気を失いかけた、というものです。 ところが、大成功を収めた初演の後に行われた演奏はことごとく失敗、あるいは微妙な評価にとどまったといわれます。第4楽章が長大に過ぎ、第3楽章までに比べて異質だとされてウケが悪く、さらに当時のオーケストラや合唱団の技術ではこの曲を完璧に演奏するのが困難だったそうです。なもんで、やがて殆ど演奏されなくなり、人々の間では「ベートーヴェンが晩年に作った謎の
指揮者によってオーケストラの音が変わってくるように、オーケストラにも独特の音色があってそれぞれに違うのでしょうか。プロの音楽家や評論家、あるいは通(つう)のファンの方だと、たとえばブラインド・テストによっても聴き分けることができるのでしょうか。 そういえば10年以上も前になりますが、私にクラシック音楽を教えてくれた同僚に「ウィーン・フィルとベルリン・フィルの音はどう違うのか?」と尋ねたことがあります。彼の答えは「たとえるなら、ウィーン・フィルは演歌、ベルリン・フィルはポピュラー・ミュージック」というものでした。「へー」と返事したものの、実のところは分かったような分からないような・・・・・・。 一昔前だと、違いの分かる人には、たとえばチェコ・フィルの音はすぐに「あ、これはチェコ・フィルだ」と判別できたそうですし、フィラデルフィア・サウンドなどという呼び方もあったとか。旧ソ連のオーケストラや、
はやぶさ2が間もなく地球に帰ってきますね。とても楽しみです。正確には小惑星リュウグウでの採取物が入ったカプセルだけを地球に放り投げ、はやぶさ2本体はそのまま別の小惑星探索の旅に出るのだとか。まだまだ働き続けるなんて、ずいぶんご苦労様ではありませんか。 ところで、ご覧の写真↓↓↓は、1997年に打ち上げられ、7年かかって土星に到着した探査機カッシーニが撮影した、土星から見た地球の写真です。大きな輪の下に見える白い小さな点が地球ですって。当たり前ですが、宇宙の中では私たちの地球もほんの点にしか見えない小さな星なんですね。何だか感慨深いです。 カッシーニは、土星に到達すると土星の人工衛星になって206回も周回し、10年間にわたって数々の発見や観測結果をもたらしてくれました。撮影した写真は実に33万2,000枚に及んだそうです。しかし、最後は土星の大気圏に突入し、10年前の「はやぶさ」と同じように
下の写真は人間の皮膚の断面の拡大模型です。なかなか複雑な構造ですね。いちばん上が表皮。表皮の厚さは0.1~0.3mmで、外側から「角質層」「顆粒層」「有棘層(ゆうきょくそう)」「基底層」の4つの層で構成されています。基底層で作られた表皮細胞が細胞分裂を繰り返し、古くなるにつれ、上へ上へ押し上げられて角質層にたどり着きます。そして角質細胞となり、最後にはアカとなってはがれ落ちていくんです。 この新陳代謝の周期は、ふつう細胞分裂から角質細胞になるまでに約14日、角質層からはがれ落ちるまでに約14日の合計28日間だそうです。ただ悲しいことに、加齢とともにこの周期は遅くなっていく。そして、角質層の細胞はすでに死んでいるんですってね。だから、表皮にいくら栄養を与えても意味がない。それより下の、とくに血管があるところを活性化しなくては美しいお肌は保てない、ということのようです。 しかし、それより驚いた
まず「協奏交響曲(シンフォニア・コンチェルタンテ)」とは何ぞや、でありますが、Wikipediaによりますと、「一般的には協奏曲と呼ぶ場合、ソロ奏者とオーケストラとの協演を目的とした楽曲を意味している。それに対し協奏交響曲は、独奏楽器がソロではなく複数であり、複数奏者とオーケストラとが演奏する協奏曲を『協奏交響曲』と呼ぶようになった」とあります。 その名のとおり、第1楽章ではオーケストラによる長い導入部があり、これが実に色彩豊かで、とりわけシンコペーションの力強いリズムには心躍ります。初めて聴いたころ、この部分が大好きになって、何度も何度も繰り返し聴いていた時期があります。そして、突然どこからかスゥーっと現れたかのように、ヴァイオリンとヴィオラの両ソロ・パートの絡み合いが始まります。私には、あたかも二匹の蝶々が戯れて追いかけっこしているように、付いては離れ、付いては離れながら、広い野原を奔
流行に後れてはならじと、Amazonプライムビデオで『鬼滅の刃』を観ております。全26話のうち第7話まで観終わったところですが、とても面白いですね。そんでもって直ちに「禰󠄀豆子」のファンになったもんですから、模型・マスコット・フィギュア・ミニチュア大好き人間として、さっそく衝動買いしてしまいました。「ねんどろいど」ヴァージョンの禰󠄀豆子です。2頭身が可愛いです。写真は正座していますが、立ち姿や戦闘姿にも変身できるんです。 ねんどろいど 鬼滅の刃 竈門禰豆子 ノンスケール ABS&PVC製 塗装済み可動フィギュア 二次受注分 発売日: 2020/09/10 メディア: おもちゃ&ホビー
1878年に作曲されたチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲は、ベートーヴェン、メンデルスゾーン、ブラームスのヴァイオリン協奏曲と並び、4大ヴァイオリン協奏曲と称されています。しかし、初演時の評価は散々だったようで、スポンサー?のメック夫人からは褒められず、当時のロシアで有名なヴァイオリニストのレオポルト・アウアーからは演奏不能だと初演を拒否され、1881年に何とか初演にこぎつけたものの、高名な批評家のハンスリックからは「悪臭を放つ音楽」と酷評されるありさまだったとか。 しかし、初演のヴァイオリン・ソロを受け持ったアドルフ・ブロツキーはこれにめげることなく、その後もさまざまな機会にこの作品を演奏し続けたことから、しだいに評価を得るようになったんだそうです。最初に拒否したアウアーも後には演奏しだしたといいます。ブロツキーの執念がなかったなら、そのまま消えてしまったかもしれないのです。この作品の
アメリカではチャイコフスキーの音楽の人気が高いんだそうですね。日本ではどうでしょうか。『白鳥の湖』や『くるみ割り人形』などの親しみやすい音楽をたくさん作曲していますから、とても馴染み深い作曲家でありましょう。しかし、聞くところによると、クラシック音楽「通」の間ではあまり評価されていないというか、「玄人受け」しないといいます。なぜなのでしょう。通と呼ばれる人の思考によくありがちな、あまりに素人受けしているから、同じレベルに思われたくないということでしょうか。 そういえば、モーツァルトを大絶賛した大評論家の小林秀雄氏が、同じ著作の『モオツァルト』のなかでチャイコフスキーについて次のように述べています。「僕は、ハ調クワルテット(K.465)の第二楽章を聞いていて、モオツァルトの持っていた表現せんとする意志の驚くべき純粋さが現れてくる様を、一種の困惑を覚えながら眺めるのである。若し、これが真実な人
思い返しますと、子どもが産まれたとき、どんな名前にしようかと、本を買って参考にしながら、あれこれ悩んだもんです。今のようなキラキラネームはありませんでしたけど、平凡な名前は嫌だったので、ちょっとひねりを加えたりして・・・。 実は、将来、孫が生まれたときの名前も考えているんです。それでそのことを会社の同僚に話しましたら「それは絶対にやめとけ」と言うんです。誰もおじいちゃんに名前を決めてもらおうなんて思っていない、って。たとえ「候補に入れてくれ」という程度であってもダメ。断るときの手間と気遣いの負担を与えてしまうだけだって。 うーん、言われてみれば確かにその通りです。やっぱり子どもの名前は、親が愛情を込めて決めるべきもの。同僚いわく「どうしても名前をつけたいのなら、愛人に産ませた子につけろ」ですって。あは~、残念ですが、あきらめます。 しかし、孫にこれだけは絶対にやってほしいと思っているのが「
作曲家のお人柄についてですが、たとえばモーツァルト、ベートーヴェン、ブラームス、マーラーあたりは、それぞれの曲のイメージや本人の顔立ち、伝わるエピソードなどから、どんな性質の人物だったかは何となく想像することができます。モーツァルトは映画『アマデウス』の通りだったんだろうなと思うし、ベートーヴェンは気難しくて癇癪持ち、ブラームスは生真面目なネクラ、マーラーは神経質で分裂気味・・・。実際のところは不確かですが、まー当たらずとも遠からずだろうという納得感はあります。 ところが、どうにも分かりにくいのがブルックナーです。私には、彼がどんなおじさんだったのか、なかなか想像できません。敬虔なキリスト教徒だったそうですが、曲想からはまるで宇宙人のようだし、人相はいかにも剛直な感じだけど、人に指摘されてしょっちゅう曲を改訂する優柔不断?さもあったといいますし。経歴は、最初は学校の音楽の先生を目指し、また
【余談です】 だいぶん前のことになりますが、ある小学校の先生が体験されたお話です。 その先生が担任したクラスに、足に障害を持った男の子がいたそうです。といっても、まったく歩けないほどではなく、かといって他の子どもたちと同じに歩いたり走ったりはできません。障害があるのは足だけでしたから、ふつうの授業を受けるには何の差支えもありません。他の子と机を並べて、同じように勉強しています。 ただ、体育の時間だけはそうはいきません。みんなといっしょには活動できず、彼だけはずっと見学でした。鉄棒のときもマット運動のときも、ドッジボールやソフトボールなどの球技のときも、彼はみんなが動き回っているのをただ見ているだけでした。 先生は、そうして一人ぽつんとつまらなさそうにしている彼の姿を見るたび、辛くてなりませんでした。しかし、彼をみんなといっしょに扱うわけにはいきません。また、やれと言ってできるはずがありませ
交響曲第7番までのドボルザークは、ブラームスの影響を強く受け、ドイツ的な原理による交響曲の作曲に力を入れていたといわれます。それが《第8番》になると様相がガラリと変わり、チェコ人としてのドボルザークの本領発揮といいますか、彼の交響曲の中で民族的情感がもっとも強く込められた曲になっています。またブラームスの《第2番》やマーラーの《第3番》のように、雄大な自然の情景に刺激を受けて作曲した例がありますが、ドボルザークでは《第8番》がそれに当たります。 何せヨーロッパでは、めちゃくちゃ長い夏休みを風光明媚な避暑地で過ごすという、まことにうらやましい習慣がありますからね。ドボルザークも、かねてお気に入りのボヘミアの避暑地に別荘を建て、《第8番》はその地で夏から秋にかけて作られた曲です。翌年(1890年)の2月、自らの指揮によるプラハでの初演も大成功を収めたといいます。それにしても色々な楽曲でうたわれ
14歳で作曲活動を始め、順調に階段をのぼりつつあったラフマニノフが《交響曲第1番》の大失敗により挫折。その後、何とか《ピアノ協奏曲第2番》の作曲に取りかかったものの、初恋の女性への失恋も重なり、強度の神経衰弱に。その苦境を救ったのが、友人から紹介されたニコライ・ダール博士という精神科医で、彼の献身的な治療によって全快したといいます。ダール博士の励ましでようやく完成した曲は、当然に博士に献呈されました。 1901年の初演は大成功、ラフマニノフの名声を打ち立てた出世作となり、その比類ない美しさ、ロマンチックさから、古今のピアノ協奏曲、というより全クラシック曲のなかで、もっとも人気の高い曲の一つとなっております。1945年のイギリス映画『逢びき』のテーマ音楽に使われて一躍知られるようになり、今ではフィギュアスケートでもよく耳にしますね。『のだめカンタービレ』でも千秋真一が演奏する場面がありました
【余談です】 ご覧の(↓↓↓)四角い物体は「拭き掃除」専用のお掃除ロボットです。ごみを吸い込む機能はなくて、乾拭きのほかに、タンクに水を入れるとモップを湿らせて水拭きをしてくれます。動かしますと、入り組んだ廊下なども、ああでもないこうでもないと迷いながら行き来し、最後まできっちり掃除してくれます。 ただ、床の端のほうにあるドアストッパーに突き当たったときは「何じゃこれは?」みたいに、えらく混乱して回転を繰り返したりします。最後にはフリーズして「ギャー」と悲鳴をあげることも。本当にギャーと言うんです。玄関の段差に差し掛かると、落ちそうになる寸前でピタッと止まって方向転換します。なかなかスリルがあります。 まー楽ちんは楽ちんなのですが、全くお任せというわけにはいかず、終わるまで見守っている必要はあります。能力的にはまだまだ発展途上のようで、けっこうもどかしいところがあります。とはいえ、せっせと
アメリカ・ニューヨーク生まれの作曲家ガーシュウィンのいちばんのヒット作『ラプソディ・イン・ブルー』。1924年に完成したこの曲は、映画やドラマ、CMなど多くの場面で使われていますから、誰もがきっと耳にしたことがあるはず。『ラプソディ・イン・ブルー』とは「憂鬱な狂詩曲」の意味。さらに「狂詩曲」は「民族音楽風で叙事詩的な、特に形式がなく自由奔放なファンタジー風の楽曲」という意味です。実際、この曲はアメリカの民族的な芸術音楽の代表格とみなされています。 作曲の発端は、ガーシュウィンの才能を見込んだジャズの大家で人気バンドを率いていたポール・ホワイトマンが、クラシックの交響曲とジャズの融合を目指して依頼したものです。ニューヨークで開催の「現代音楽の試み」と題されたコンサートに向けて作られ、依頼を受けたガーシュウィンはわずか2週間で一気に書き上げたといいます。何でも乗っていた汽車の車両が発するリズミ
マーラーが完成させた楽曲として残っているのは、交響曲(第1~9番と『大地の歌』)と歌曲のみなんですね。多くの交響曲作家が、協奏曲やソナタ(器楽曲)、オペラなど幅広く作曲してきたなかにあって、マーラーはユニークな存在といえます。そして、その交響曲については「長大・難解・大げさ」というイメージから、とっつきにくいと感じている人が多いようです。かくいう私も最初のころはそうでした。 ところが今では大のマーラー好きになっています。そうなったきっかけや経緯ははっきり覚えていません。いつの間にか知らないうちに好きになっていたという感じです。マーラーは頑固一徹、神経質な上にかなり分裂気質の人だったそうで、彼の作品の多くは性格そのままに分裂気味で、その具合が、マーラー好きにはたまらない魅力となっているわけです。 しかし、この「分裂」という言い方はずいぶん失礼で、あまりよろしくありませんね。変幻自在、いやドラ
昔は、コンサートホールなどでのライブレコーディングは音質があまりよくないというイメージが強かったんですけど、今は全くそんなことないですね。スタジオ録音と変わらないほど音が明瞭かつ繊細で、雑音も全くなく、演奏が終わった後の拍手を聴いて初めて「あ、ライブだったんだ!」と気づかされることがあります。専門的なことはよく分かりませんが、とてもすばらしい技術の進歩だと思います。とてもブラボーです。 ただ、同じライブレコーディングでも、ホールトーンがよく効いたものと、楽器と距離が近く感じるものがありますね。個人的には、どちらかというと前者が好みです。オーディオで聴く際も、やはりコンサートホールで聴いた音の再現を目指しているのであって、楽器の音をごく間近に聴きたいわけではないですから(とくに管弦楽)。ただ、あまり遠すぎてもいけません。私としては、ザ・シンフォニーホール(大阪市)の2階席中央の最前列で聴いて
ふだん毎日のように耳している音楽の中で、お風呂が沸いたときに流れる曲がありますね。「♪チャラランチャリランチャラランランラン♬ オフロガワキマシタ」というやつ。多くのご家庭で鳴っておられることと思います。先日、関西で夕方に放送されるワイドニュース番組『かんさい情報ネットten』に、10歳の男の子から調査の依頼が寄せられまして、「お風呂が沸いたときに流れる音楽は何の曲?」というものでした。 そこで番組はまず、街角で出会った人たちにこの音楽を聴かせてみたんですね。ところが「聴いたことあるけど、分からない」「これ、お風呂が沸いたときに流れる音楽です」「あっ、そうだそうだ」っていう感じ。ふだん当たり前のように聴いているから、意識から遠く離れてしまっているんでしょうかしらね。そういうことってありますよね。かくいう私も曲名も知らず、それを気にも留めずにずっと過ごしていましたよ。 ところが、中には「知ら
『アルハンブラ宮殿の思い出』といえば、まずもって思い出すのが、不肖私が紅顔の少年だったころにラジオで聴いていた『永六輔の誰かとどこかで』という番組です(年がバレますけど)。永六輔さんとフリーアナウンサーの遠藤泰子さんによるトーク番組でして、その中に、リスナーからのお便りを紹介する「七円の唄」というコーナーがありましてね、そのBGMに使われていたのが『アルハンブラ宮殿の思い出』だったんです。 この番組、大好きでしたね。永さんの軽妙で柔らかな語り口と、遠藤さんの控えめで上品な受け答えがなんとも絶妙でした。「七円の唄」の”七円”というのは、当時7円だった葉書のことです。リスナーから葉書で寄せられた、さまざまな喜びや悲しみの入り混じったお便りを、永さんと遠藤さんが交互に読み上げ、永さんがコメントするというものでした。その静かで優しい時間に流れていたのが『アルハンブラ宮殿の思い出』です。私の頭のなか
ベートーヴェンが9曲の交響曲を作り終えたのちに、ある人から「いちばんよくできたと思う作品は?」と尋ねられたそうです。その答えは《第3番》。じゃあいちばん好きな作品は?との問いには《第8番》と答えたといいます。へーという感じ。前者はともかく、後者についてはちょっと意外な気がします。私自身、《第8番》はめったに聴かないし、感性が乏しいのか、正直言いましてそれほど心に響かないんです。実際の演奏機会もそれほど多くないといいますし。 この《第8番》は、ベートーヴェンが41歳のころ、《第7番》と同じ時期に並行して作曲が進められた作品です。公開後は《第7番》が聴衆の大喝采を浴びたのに対し、《第8番》への反応は今一つだったといいます。《第7番》が熱狂的な人気を得て再演に次ぐ再演となったので、その機会を利用して《第8番》もいっしょに演奏したりしたものの、ほとんど無視されたそうです。ベートーヴェンはずいぶんが
【余談です】 作家の五木寛之さんは、かつて「うつ病」に悩んだことがあるそうです。しかも二度。最初のうつのときに、楽しいことを毎日一つずつ日記に書いたそうです。それが良い効果を生んだのですが、二度目のうつの発作の時期には、なぜか全く効き目がなかったといいます。 そこで五木さんは、思い切って「悲しみの日記」を書くことにしました。一日に一行でよい、今日はこういうことで悲しかったと、毎日書く。わずか一行にとどめるのは、長続きさせるためです。五木さんは、これでずいぶん癒されたといいます。悲しいときは、悲しいことに浸る。本当に悲しいときは、他のことをしているヒマがないから、と。 アメリカでこんな研究が行われたそうです。多くの人に「人生でいちばん辛かった経験」を書いてもらいます。すると、ふつうの日記を書いてきた人たちに比べ、辛い経験を正直に吐露した人々はリウマチの痛みが軽くなり、アレルギーも低下したとい
これからオーディオを始めようとなさっている方にとって、何より悩むのが機器選びなんだろうと思います。どれを買ってどう組み合わせたらいいのか。とりわけ音に最も影響するといわれるスピーカーは製品数が膨大ですからね。カタログ上のスペックだけではなかなか判別できないし、全部を自分で試聴するのは不可能です。かといって、オーディオ雑誌は広告みたいなものだから当てにならないし、他の人のレビューもあらゆるスピーカーの試聴を踏まえたものではないので鵜呑みにはできません。 もっといえば、同機種のスピーカーであっても、評価者によって評価は様々ですし、設置場所や接続するアンプやケーブルなどによっても音は大きく変わります。けっきょく何をどう参考にしたらよいのか分からなくてドツボにハマってしまいます。もし私が何の知識もなく一からオーディオ機器を揃えようとしても右往左往するばかりでしょう。でも、どこかで決めなきゃいけない
モーツァルトが亡くなる3年前に書いた生涯最後の交響曲第41番『ジュピター』。元オーボエ奏者で指揮者でもある宮本文昭さんによれば、モーツァルトのものすごい実力をまざまざと見せつけられる作品だといいます。あまりにすごいので、指揮者としてできればお相手したくない、あの小澤征爾さんにとっても手強い曲なんだそうです。さらに宮本さんは、第41番は立派すぎて、だから逆にあまり好きじゃない、とも。 恥ずかしながら、ゆる~いクラシック音楽ファンの私には、何がそんなに立派すぎるのかよく分からないのですが、宮本さんの解説によればこういうことです。まず、作品全体として、細部まで考え抜かれた巧妙な建築のようなつくりをしている。とりわけ最終楽章は、モーツァルトが持っていた作曲理論の集大成のようであり、「対位法」という、バッハなどの古典の作曲家が追い求めていた手法を、ものすごく充実したかたちで結実させている。 対位法と
【余談ですけど】 米Google社でAI開発の責任者を努める天才・カーツワイル氏が「2045年までに実現されること一覧」というのを発表しているというので、抜粋してご紹介します。 2020年代にはコンピュータの集積度が人間の脳を超えることは、ほぼ間違いない。その後、10~20年のうちにアインシュタインやボーアベルなど人類トップを超越したスーパー人工知能が複数誕生する。2045年までには、相対性理論や量子論も書き換えるような革命理論を日々発表し続ける。 すべての製造業は、あと5年で3Dプリンタに置き換わる。すでに米国では自動車のタイヤ以外のすべてを3Dプリンタで作ることに成功しており、中国ではビルや住宅の部屋を3Dプリンタで作り、これを組み上げる実験中。工場でモノを作って遠隔地に運ぶ必要がなくなる。現地に3Dプリンタを置いて素材だけを送る。 あと数年で、コンビニに3Dプリンタが置かれるようにな
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