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TGS2024
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モニク・ダヴィド=メナール『ドゥルーズと精神分析』(2005年)の訳稿を、河出書房新社に定期的に送り始めた。そこで、このブログで、断片的に、この著書の紹介もしていきたい。このブログの本来のテーマに取り組むのがさらに遅れるが、致し方ない。 この書の異常に長く複雑な文章を砕いて、日本語として読んでわかる訳文に変換するのに手間取っている。また、フロイト、ラカン、ドゥルーズの三者に通じている読者はそれほど多くないと思われるので、本書に出てくる精神分析用語とドゥルーズの哲学用語について訳注で平易な解説を加えたいとは思っているのだが、どの程度まで訳注を付ければよいか、少し迷っている。 この書は、ドゥルーズによる精神分析批判とりわけラカン批判に対する、メナールからの、つまり精神分析の側からの検討というかたちをとっている。メナールは、ドゥルーズに対して、いきり立った「反論」をしているのではなく、治療実践と
暑さで脳が麻痺していたが、立秋も過ぎて夜になればやや涼しい風が吹き、思考力が戻ってきたので、ブログの執筆に戻ろう。 今年の3月、まだパリにいた頃、オペラ座バスティーユで「ラ・バヤデール」のニキヤを踊るオレリ・デュポンを見たが、昨日(8月11日)、東京文化会館で開かれている「世界バレエフェスティバル」で、再びオレリの舞いと踊りを見た。ジェローム・ロビンズの「アザー・ダンス」。オレリをひたすら賛美する私には、ただ素晴らしいとしか言うことができない。 当日、Bプロがすべて終わると、観客はくどいほどカーテンコールを求め、私もそれを楽しんだ。夜の8時半すぎに会館を出ると、人だかりがしていたので好奇心に駆られて近寄ると、その日に出演したダンサーたちがファンの差し出す色紙などにサインをしていた。そこにはオレリがいた。フランス語ができる一人のファンが「メルシー・マダム」と礼を言うと、オレリは「ドゥ・リアン
ドゥルーズをドゥルーズによって、ラカンをラカンによって、ハイデガーをハイデガーによって理解すること、これがこのブログのひとつの目的である。 「理解すること」の意味は、さしあたって、以下のように心理的に理解しておく:「わかったと思うこと」、そして「わかったと思ったら、しばらくして、そのわかりが浅かったと思えるようになり、もっと深くわかりたくなる」。 2010-12-18の「ラカンSLV翻訳と注釈1」を再開する。 《es》に関して、話がハイデガーの方に逸れていったが、ハイデガーに関しては独立したカテゴリを立て、そこで《es》を論じよう。 以下、「《盗まれた手紙》についてのセミナー」原文を段落ごとに、そしてさらに1文ずつ表示する。 ∴ 翻訳 (エピグラフ) 「そんでそれがおいらに運よくできるなら、 そんでそれがうまく運ぶなら、 それが思考=思想というもんだ。」 Und wenn es uns g
序論第5セクション第3段落 『差異と反復』の読者から、次のような不満を聞くことがある――――すなわち、この書では論が深まる前にそのテーマが急に変わってしまい、一種のフラストレーションが残る、と。私自身、この書にもっと詳しい説明があれば、改訳ももっと速く進むと思うときもある。 一つの語は多くの意味を持ち、したがって辞書では一つの語に多くの訳語があてられている。文脈から、そのうちの一つを選ぶわけだが、文脈を捉えきれないときはどの訳語をとればよいのか迷う。また、辞書の訳語ではうまくいかないときには、自分で訳語をつくることもある。 しかし私たちは、『差異と反復』の巻末に置かれた参考文献の一覧表の説明文を読み、自分なりの『差異と反復』の読解を試行錯誤的に試みる必要があるだろう。この説明文の一部を引用しておこう(但し、訳文を一部変更した)。 「必要不可欠な著者や著作ではあっても、それらを私たちが援用す
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