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【夫婦の日本史】固かった信長と家康の「清洲同盟」 その陰で起きた身内の粛清劇+(1/3ページ) - MSN産経ニュース
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【夫婦の日本史】固かった信長と家康の「清洲同盟」 その陰で起きた身内の粛清劇+(1/3ページ) - MSN産経ニュース
■第68回 松平信康(1559~1579年) 織田徳姫(1559~1636年) 戦国時代、ある若... ■第68回 松平信康(1559~1579年) 織田徳姫(1559~1636年) 戦国時代、ある若い夫婦に起きた悲劇について記したい。徳川家康が、松平元康(もとやす)と名乗っていたころのことである。 永禄3(1560)年5月、今川義元は大軍で尾張に侵攻したが、織田信長の奇襲に遭い命を失った。「桶狭間の戦い」である。今川の将の一人だった家康は本領の岡崎に戻り、今後どうすべきか熟考した。 「ただちに弔い合戦に及ぶべし…」。義元の嫡男である氏真(うじざね)に訴えたが、動こうとしない。そこに家康の生母(於大(おだい)の方)の兄である水野信元から、「自分が仕える信長に味方しないか」と誘いがあった。 美濃(岐阜県)の斎藤氏と激しく争っていた信長は、背後の守りを堅くしておきたかったのだ。対等の立場で、ともいう。ならばと永禄5(1562)年正月、同盟が成立した。