岡堰の沿革 江戸幕府が成立し、安定期に入り始めた寛永年間(1624から1644)、関東郡代となった伊奈半十郎忠治は、洪水を防ぐために鬼怒川と小貝川を分離しました。そして取手市戸田井付近の台地を切り開き、利根川と合流する今のような小貝川の流路が完成しました。 小貝川は鬼怒川と切り離されることで川の流れが安定し、寛永7年(1630)には岡堰が設けられました。岡堰にためられた水が用水となり、相馬二万石と呼ばれる広大な新田が誕生しました。 しかし、工事は現在のように簡単ではなく、多くの労力と様々な失敗を繰り返しながら行われました。勢いの強い水の流れを変えるために、萱と竹を使った独特の工法である「伊奈流」が苦労の末に編み出されました。昭和に入ってからも、人々は堤防や堰の決壊時には、この伝統的な工法である「伊奈流」で危機を乗り切ってきました。 赤松資次郎画伯が描いた明治32年以降の岡堰全景 明治の末近