2024年06月04日 テストの未来:CBTからIBTヘ 紙筆試験からCBT・IBTへの移行とそのメリット・課題、未来の試験のあり方 CBT IBT
まつもとゆきひろ ネットワーク応用通信研究所 フェロー 楽天 楽天技術研究所フェロー Rubyアソシエーション理事長。Rubyの作者 Blog「Matzにっき」 まつもとゆきひろの起こした小さな奇跡---梅田望夫氏の著書「ウェブ時代をゆく」の中の節のタイトルである。「時代の巨大な変化の中で個人がどう生きるべきか」をテーマにしたというこの本の中で,Rubyを生み「オープンソースで飯を食う」生き方を実践するまつもと氏の生き方に,梅田氏は何を見い出したのか。梅田氏とまつもと氏が,インターネットがもたらす新しい時代の新しい仕事,新しい生き方を語る。 まつもとゆきひろの起こした小さな奇跡 ――梅田望夫さんの新刊「ウェブ時代をゆく」には,「まつもとゆきひろの起こした小さな奇跡」という節があります。この本で何を伝えようとされ,なぜまつもとさんを紹介されたのでしょうか。 梅田 いま,インターネットの切り拓
「オープンソースが成し遂げたものづくりやコミュニティのような,小さくても確実な幸福感が得られるような場所が,よりよく生きたいと思っている人たちの数だけ,ネットの上にできたらいいな」(梅田氏)。「僕が追求するのはオープンソースであるかどうかよりも,個々の技術者が幸せかどうかなんです」(まつもと氏)――梅田望夫氏とまつもとゆきひろ氏の対談,後編は新しい時代の新しい幸福とそれを実現する生き方へと話が及ぶ。 <<前編へ<< ネットの上の「小さくとも確実な幸福感が得られる場所」 梅田 まつもとさんにとっての「幸せ」って何ですか。 まつもと ご飯が食べられる範囲で,好きなことを日がな一日やっていられれば幸せですね(笑)。 梅田 「ご飯が食べられる」の定義もいろいろありますよね。今日飯を食えればいいとか,蓄えがないといけないとか。 まつもと 蓄えはあったほうがいいですね。生活に不安がない程度に。 梅田
世界に普及するプログラム言語を開発した日本人、まつもとゆきひろ氏。彼がつくったオブジェクト指向のスクリプト言語「Ruby」はシンプルで利便性に優れ、世界各国のプログラマたちに愛用されている。こんなエンジニアは、たぶん日本にひとりしかいない。 プログラミングの本質的な面白さはデザインにあると思います。こんなことをこんなふうに達成したい、そのためにはこうしたアルゴリズムでこのデータ構造を使おう。このようにデザインを積み重ねて、最終的にコンピュータにわかる言語にしていく。とても刺激的でクリエーティブな作業です。Rubyはそのためのツールであり、私はそのプログラミングをしているので、「一粒で二度おいしい」ですね(笑)。 ただ、プログラミング言語は人間が相手。見かけはコンピュータを相手にしていても、未来のユーザーが「ストレスなく楽しくプログラムが書ける」を考えながら開発を続けています。その感覚は数値
海外で数十万人と言われるユーザー,二千数百件の関連ソフトウエア開発プロジェクト,数百人が詰め掛ける米国のカンファレンス---オープンソースのオブジェクト指向プログラミング言語Rubyは,日本で生まれて世界で使われる数少ないソフトウエアのひとつだ。なぜRubyは世界の技術者に支持されたのか。 (聞き手は高橋 信頼=ITpro副編集長,写真は新関 雅士) ―― Rubyは海外に多くのユーザーがいます。 正確な数はわかりませんが,数十万人と言われていますね。もしかしたら100万人以上いるかもしれません。 日本より海外のユーザーのほうが多いようです。メーリング・リストへの投稿量で言うと,英語のものは日本語の約10倍あります。 Ruby専門のカンファレンス(Ruby Conference)は日本よりも海外で先に始まったんです。米国のRubyConfは2001年からから行われています。毎年行われてい
周囲がまつもと氏のまれたぐいまれなプログラミング言語アーキテクトとしての才能に気づき、まつもとがそれに専念できるような体制が自然に形作られつつある――Rubyはいま、そういう状況にあるように見える。今回は、Rubyの開発におけるまつもと氏の考えに迫る。 「リリースマネジメントを譲りました」 オブジェクト指向スクリプト言語「Ruby」の開発は、1993年2月24日に始まった。最初はまつもとが1人で開発していたが、2006年12月現在、大本(おおもと)のRubyのソースコードを変更できる権限(CVSのコミット権)を与えられているのは38人となっている。ちなみに、そのうちのおよそ4分の1は海外からの参加だという。 今やRubyは、まつもと1人のプロジェクトではなくなりつつある。いや、まつもとあってこそのRubyという意味では、それは今後も変わることはないだろう。ただ周囲が、まつもとのたぐいまれな
過去2回にわたってお届けしてきたまつもとゆきひろ氏へのインタビューは今回が最終回となる。「誰かがRubyを実装し直したとしたら、いまのRubyよりもずっとエレガントで速いものができるはず」と語るまつもと氏は自身の存在価値をどのように見ているのかに迫る。 14年の歳月を経た今も、まつもとはRubyの開発で中心的な役割を果たし続けている。継続することこそが最も難しいといわれるオープンソースソフトウェアの開発において、1人の開発者が長期にわたって中心的な役割を果たし続けている例はそれほど多くない。こうしたことは、成功したから継続しているのだと思われがちだが、実際にはそう単純なことばかりではない。Rubyも、世界的に知られ始めたのは英語の書籍が発売された2000年秋以降で、Ruby on Railsによって広く使われるようになったのはこの2年ぐらいのことだ。その歴史の半分以上の年月は、いわば「下積
今や世界に知られるオープンソースのプログラミング言語「Ruby」。 シンプルで利便性に富んだこの言語を開発したのが、まつもとゆきひろさんです。 「我らがクレイジー☆エンジニア主義」で、まつもとさんのプログラマとしてのルーツを取材したのですが、「Ruby」を開発したのは、サラリーマンプログラマ時代。その当時のお話がとても興味深い! 世界のプログラマから高い評価を得たことで、オープンソースソフトウェア開発で、最も成功した日本人とも言われるまつもとさんが、どう会社から「自由」を得たのか? 今回はそんなこぼれ話をお伝えします。 ■■同僚が力を認めてくれれば、自由でいても大丈夫 黒幕Q :会社の業務をやりながら、「Ruby」開発をしてたんですか? まつもと:「Ruby」の開発を始めた1993年は、ちょうどバブル崩壊で 景気が冷え込んだ時期だったんです。 僕は、ソフトハウスで社内シ
インタビューは、松江駅すぐ近くにある「松江オープンソースラボ」で行った。ここは、オープンソースソフトウェアの研究・開発・交流の拠点として、2006年夏、松江市が開設。地域ブランドの創生を目指す「Ruby City MATSUE」プロジェクトを展開するために、企業、技術者、研究者、学生、ユーザーの交流の場として使われている Q そもそもどうしてプログラミング言語を作ろうと思ったのですか? 端的に言ってしまえば、プログラミング言語が好きだったからでしょうか。 若い頃から関心があって、高校生ぐらいの頃からいつか作りたいと思っていました。もともと、プログラム言語に限らず“ことば”に興味を持っていて、ずっと小さな頃には、いつか自分で自然言語みたいなものを作ってみたいと思っていたんです。 高校生ぐらいの頃にBASICなどを使うようになり、Pascalなどを本で勉強して、自分の考えていることをデザインし
「Rubyを仕事に使っている人、手を挙げて」 米国コロラド州デンバーで、2006年10月に行われた「Ruby Conference 2006」のひとコマ。Rubyの開発者や利用者が集まり、技術的情報等を交換し交流を深めた。300人以上の参加者が集い、カンファレンス会場は熱気にあふれた 写真提供=まつもと ゆきひろ 閉会直後、参加者と撮影した集合写真。 参考までに、会議の内容は、ウェブマガジン「Ruby Magazine」で報告されている。 http://jp.rubyist.net/magazine/?0017-RubyConf2006Report 日本でも昨年6月、お台場の産業総合研究所にて、初めての本格的な「日本Rubyカンファレンス2006」が行われた。http://jp.rubyist.net/RubyKaigi2006/ Q 95年に(ソースコードを)公開しようと考えたのは
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