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  • 仏教の虚妄世界は読み解けるか―『生物から見た世界』 ユクスキュル | 考えるための書評集

    ユクスキュルの『生物から見た世界』はまえから読みたいと思っていた。仏教の世界観でこの世界は幻想や幻であるといわれていることを、現代科学から説明されているようなはないかとさぐっていたからだ。 映画の『マトリックス』ではこの世界は「仮想現実」であるといったストーリを展開している。われわれが見る世界は仮想現実や幻想であるといった実感を、生物学から得られないだろうかという読み方としてこのを手にとった。 『大乗起信論』ではこういっている。 「(真実を知らないために)心が動くと、(そこに主客の対立があらわれ、心は主観として、対象を)認識、分別する。もし心の動きがなければ、心が主観として対象を見ることもない。 心が動いて主観としてはたらくとき、真実には存在しないのに対象がそこに現れる(妄現)。もし心が主観としてはたらくことがなければ、客観も成立しない」 「世間の一切の認識対象は、すべてこれ衆生の(根

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    fuyukky 2013/06/06
    [June 06, 2013 at 08:41AM] [] 仏教の虚妄世界は読み解けるか―『生物から見た世界』 ユクスキュル | 考えるための書評集
  • 豊穣な性の古代自然宗教とはどのようなものだったか | 考えるための書評集

    古代の自然宗教には無節制で放縦な性の慣習やルールがあったようなのだが、それはどのようなものだったのか。内実や理由がよくわかるシューバルトの『宗教とエロス』の第二章「創造の歓喜」から引用したい。 古代の性慣習は現代の純潔と貞操の性観念のネガや対比に思えてきて、その違いからうきぼりにされることがたくさんあるように思う。 「畑地の作物の豊穣とすべての植物類の繁茂のためには、人間たちも少なくともある一定の時期には可能なかぎり無節制の媾合を営むのが効果的であり、またそうすることが必要なのだと考えざるをえない。人間は性を通じて、いわば万象の統治に参与するのである」 この古代宗教のキーポイントは作物や獲物の豊穣と人間の性行為の同一視である。それらの豊穣と再生をもたらすのは神々の交合である。神々の多産をもたらすためには人間も性行為をいっそう励まなければならないという考えがあったようである。 「母神宗教の人

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    fuyukky 2013/02/08
    [February 08, 2013 at 02:14PM] [] 豊穣な性の古代自然宗教とはどのようなものだったか | 考えるための書評集
  • 神が身近にいたひと昔前の暮らし―『日本人の神さま』 戸井田 道三 | 考えるための書評集

    現代の多くの人はもう神なんて信じられなくなっているのではないかと思う。でも神が身近にいた生活や習慣はまったく滅び去ったわけでもなく、ところどころに顔を出す。そういった世界観の根を掘ってみたいと思ったら、こののような身近な神を語った世界をのぞいてみるのもいいかもしれないね。 昭和のはじめ、著者はおばあさんから「お客さんがきたから肩がこってしかたがねえ」というような話を聞く。「どこから来たお客さんかね。東京からか」と聞くと、笑って「オショロさまだよ」と答えたという。オショロさまというのは、お盆のときに帰ってくる先祖の霊である。神は身近に存在する世界がすこしまえまであったのである。 このではそのような暮らしや生活の身近にいた神のあり方をつたえるになっている。神は身のまわりにどのようにあったのかと知るにはいいかもね。 「火と神」、「水と神」、「土と神」、「小さ子神」といった章立てで身近な神

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    fuyukky 2013/01/18
    [January 18, 2013 at 05:43PM] [] 神が身近にいたひと昔前の暮らし―『日本人の神さま』 戸井田 道三 | 考えるための書評集
  • 雌岡山・雄岡山はなぜ男と女にかたどられたのだろう | 考えるための書評集

    神戸市西区には雄岡山(おっこうさん)と雌岡山(めっこうさん)という男と女がかたどられた山がある。そして雌岡山には性器信仰の神体がのこった裸石・姫石神社がある。 この山はどうして男と女がかたどられたのだろう。 大地に性を見て、大地の神が交合することによって太陽や収穫の豊穣がもたらされると考えたのが古代人である。この男女をかたどられた山にはどのような神話があるのだろう。 こちらが男の雄岡山。三角錐のきれいな山容をしている。 こちらは女の雌岡山。ふもとの池は金棒池とよばれ、民話によると金棒で高さ比べをしているところ、「雄岡山の棒」が折れてふたつの山のあいだにささり、そこが池になったという話がある。 金棒というのはもちろんファロスですね。交接的な暗喩として語られた民話であると思うのだが、恵みや生命をもたらす池や水がそれによってもたらされたといえますね。雨乞いに近いかたちなのだろうか。 雌岡山の山頂

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    fuyukky 2013/01/07
    [January 07, 2013 at 01:56AM] [] 雌岡山・雄岡山はなぜ男と女にかたどられたのだろう | 考えるための書評集
  • 性の解放はおこなわれたのか―『盆踊り』 下川 耿史 | 考えるための書評集

    盆踊りには乱交や性的アナーキーがつきものだったのか。歌垣といわれるものはお見合いパーティというなまやさしいものではなくて、ただの乱交パーティだったのか。そういうことを確認したくてこのを読む。 わたしとしてはこの著者の姿勢は感服しなかった。むかしの性を民俗学者のように農耕儀礼や祖霊信仰で説明してしまうのではなくて、性それ自体の問題としてとらえるべきだといっている。でもそれでは乱交や性的アナーキーがおこなわれた、許容された理由がまったく見あたらなくなると思うのだが、著者にとってはそのような抽象的な説明はシュールレアリズムのようだというのである。 夜明けまで歌垣の契りをつづけていたために松に変わってしまった話をただ全裸で寝過ごした恥だと著者は解釈するのだが、わたしには「神の時間」から「人の時間」まで超過してしまったという解釈のほうがふさわしいと思うのだが、著者にはそういう解釈は是が非でもはねつ

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    fuyukky 2013/01/06
    [January 06, 2013 at 01:27AM] [] 性の解放はおこなわれたのか―『盆踊り』 下川 耿史 | 考えるための書評集
  • はじめて「スクール・カースト」の名を冠した研究書ですね―『教室内(スクール)カースト』 鈴木 翔 | 考えるための書評集

    ネットではふつうに語られる「スクール・カースト」という言葉だけど、研究書としてはまだ出されていなかったので、はじめてその名を冠したを読んでみた。 「ブラック企業」でもそうだったけど、従来のマスコミだけでは掬えない言葉や事象がネットから生まれたことはネットの力を感じさせるね。 このはアンケートやインタビューの集計結果の発表のようなかたちになっている。深い考察や問題意識をえぐられるような指摘が乏しく感じられたのはそのせいだろうか。 まあ、でも言葉にされるだけでも、うわさをされたり、ほのかに認識されていたけど、明確でないスクール・カーストというものがだいぶ姿を現したのではないかと思う。 スクール・カーストの解明はいじめ解決の直接的アプローチではないが、その土壌から生まれてくるものであるから、学校内階層を解明することはいじめの解決に向けてのステップになるとはなるほど。 わたしはこのようなスクー

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    fuyukky 2013/01/03
    [January 03, 2013 at 09:57AM] [] はじめて「スクール・カースト」の名を冠した研究書ですね―『教室内(スクール)カースト』 鈴木 翔 | 考えるための書評集
  • 2012年、ことし読んでよかった本 | 考えるための書評集

    アニメや映画、ドラマの分析力・読解力がすごいと思いましたね。この物語はこういうことをいっていたのか、メッセージはこういうことだったのかと感嘆しきりの一冊でした。宇野常寛おそるべしと頭に叩き込まれた一冊でした。 書評 スゴイ物語読解力―『ゼロ年代の想像力』 宇野常寛

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    fuyukky 2012/12/31
    [December 31, 2012 at 10:44PM] [] 2012年、ことし読んでよかった本 | 考えるための書評集
  • 150年前、人前での裸が平気だった日本人―『裸はいつから恥ずかしくなったか』 中野 明 | 考えるための書評集

    唖然としたというか、驚嘆というか、思わず唸った一冊だった。 日人はどうやらわずか150年前、人前で裸をさらすことに羞恥も禁止もなかったようなのだ。こんにちのわたしたちは「そんなバカなこと」と思うだろうし、なかなか信じられないことだろう。 だからこのでは当時、西洋人が混浴や庭先で行水をする日人に出会って驚いたり、非難する言葉の記録がつぎつぎとたどられてゆくことからはじまる。わたしたちはもう西洋人と同じ考えと目線しかもてないから、かれらのカルチャー・ショックの言葉のほうがよほどぴったりくる。わずか150年前の感覚すらわたしたち日人はもうもってはないのである。 このは1854年、安政元年に描かれたつぎの下田の公衆浴場のナゾからはじまる。 どうもおかしいではないか。男女が混浴で浴場に入っていて、ちっとも裸を隠すわけでも、恥ずかしがるわけでもなく、堂々としている。こんにちではありえないこと

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    fuyukky 2012/12/29
    [December 28, 2012 at 11:18PM] [] 150年前、人前での裸が平気だった日本人―『裸はいつから恥ずかしくなったか』 中野 明 | 考えるための書評集
  • クリスマスにはトマス・ア・ケンピスの『キリストにならいて』を読もう | 考えるための書評集

    クリスマスを祝うなら外側のかたちばかりではなく、キリスト教のエッセンスにふれたいですね。 ということなら、わたしのおすすめはトマス・ア・ケンピスの『キリストにならいて』である。自己啓発の元祖といっていいと思う。信者でなくても、神を信じなくても、方法として心が安らかになる方法、平安になる方法がいくつも説かれている。 わたしなど神など信じることはもうできないと思うのだけど、このの方法はなるほど心が安らかになる方法が知悉されているなと思う。 『福音書』はあまりセラピーの要素がないと思うが、『キリストにならいて』はセラピーの要素満載。現代の自己啓発のノーマン・V・ピールやジョセフ・マーフィーより幅広いセラピー書になっているのではないかと思う。 いくつかの心が安らかになる方法を引用したいと思う。 「もしお前が心の平安を、自分の感情やその人とつきあってゆくことのために、誰かに依らせ、その人の手に委ね

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    fuyukky 2012/12/25
    [December 25, 2012 at 06:12AM] [] クリスマスにはトマス・ア・ケンピスの『キリストにならいて』を読もう | 考えるための書評集
  • 世間の物差しを捨てて自分の人生を生きよ―『「善人」のやめ方』 ひろ さちや | 考えるための書評集

    ひろさちやは何冊か読んだらもう同じことしか語っていないように思えるのだけど、このはサマセット・モームの『人間の絆』を題材にしているから読んでみた。 一度読んだを読み返すのは新鮮味がないから、新しく買ってひろさちやの脱力系、出世間の考え方を再注入するという効用でも買うことはあるのだけど。 ひろさちやの脱力系の人生観はほんとに助かる。安らかになれる。 このでいいたいことはこういうことである。 「「立派な人生」だとか「惨めな人生」だとか、そんなものはありません。それを「立派」と見るか「惨め」と見るか、物差しは自分が持っているのです。他人が見て、<おまえの人生はなんて惨めなんだ>と思われたところで、そんなものは気にする必要はないのです。自分さえよければそれでいい」 世間の人はこれが「正しい生き方」だとか、これが「意義ある人生」だとかの模範的な生き方像というものをもっているようだが、それで優劣

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    fuyukky 2012/12/23
    [December 23, 2012 at 02:17AM] [] 世間の物差しを捨てて自分の人生を生きよ―『「善人」のやめ方』 ひろ さちや | 考えるための書評集
  • 性とは神への歓待や豊穣の祈りではなかったのか―『遊女と天皇』 大和 岩雄 | 考えるための書評集

    大和岩雄はこのが出される1993年より十年前の1983年に、レイラインを考察した『天照大神と前方後円墳の謎』というを出している。 夏至や冬至の太陽の日出没の方角に寺社山岳が地理上で結ばれているのではないかというレイラインの分析である。そこで書の考察の主題となる「一夜」や「神聖淫売」がとりあげられていて、わたしはもっとくわしいを読もうとこのを手にとったわけである。 レイラインでは神々が新しい年の太陽を性交によって生み出すという古代の世界観があり、王や民衆が性的放縦をおこなうことにより、新しい年の豊穣や繁盛が世界にもたらされるという考えがあった。この考えにならえば、人々が乱交や性的放縦をおこなった理由が連なってくるというものである。 その連なりが書ではいまいち弱い気がするので、書だけを読めば、聖なるものとしての遊女というテーマだけを読みとってしまうことにならないかと思うのだが。

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    fuyukky 2012/12/14
    [December 14, 2012 at 03:57AM] [] 性とは神への歓待や豊穣の祈りではなかったのか―『遊女と天皇』 大和 岩雄 | 考えるための書評集
  • 瞑想を理解するための10冊の本 | 考えるための書評集

    瞑想とは頭を「空っぽ」にすることである。ものを考えない、考えに乗らないことである。 それを理解しないのは、そもそもはじめからどうしてものを考えるのが悪いことなのか、考えることをやめようとするのかがわからないからだ。 瞑想は「言葉の否定」である。「思考の否定」である。どうしてそんな大事なものを否定するのか。 日の禅仏教などはそもそもこの疑問すら禁じてひたすら考えないこと、言葉の否定を無理強いしたりする。坊さんの書いた瞑想のにしても、道徳や説教くさい生活指針であったりする。げんざいの仏教から有益な情報は得られにくい。 われわれは考えること、思考をすることは「よいことだ」、「頭のよくなることだ」、「思考を否定することは奴隷や隷従することだ」と思う思考文化のなかで生きている。 瞑想を理解するのは、思考や言葉はなぜ悪いのかを説明したを知らなければならない。 ◆

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    fuyukky 2012/12/03
    [December 03, 2012 at 02:26AM] [] 瞑想を理解するための10冊の本 | 考えるための書評集
  • 瞑想を「心の声に耳を傾けるもの」という根本的なまちがい | 考えるための書評集

    よく新聞などで瞑想や座禅を紹介した記事で、さいごの一文に「心の声に耳を傾ける」という言葉が常套句のようにさしこまれることがある。 以下の記事にもさらりとそういう一文がある。 「瞑想は、そんな心の状態に安らぎを与えてくれ、自分の心の声に耳を傾ける時間を持てるものなのです。」 「ランチ後にたった3分のプチ瞑想。仮眠をとったかのようなスッキリ感」 Lohas news これは瞑想の根的なまちがいであり、「心の声に耳を傾け」たら瞑想にならない。心の声を「聞き入れない」ことが瞑想なのである。根的なまちがいをふっともらしてしまうのである。 どうしてこういうまちがいがあたりまえのこととして通用してしまうのか。 基的に新聞のような記事を書く人は、書くことに自分のアイデンティティを賭けている。書くことが自分の価値であり、自分の思い入れの主要な部分である。自分の全存在を賭けているような「書くこと」の否定

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    fuyukky 2012/11/23
    [November 23, 2012 at 09:52AM] [] 瞑想を「自分の心の声に耳を傾けるもの」という根本的なまちがい | 考えるための書評集
  • 古代人は「時間」も「季節」の概念も知らなかった | 考えるための書評集

    「古代人と天文学」 ナショナル・ジオグラフィック 動画はFC2動画で見られます。会員登録をすすめられるばあいは、「無料」で登録ができます。もし動画が削除されていたらごめんなさい。 この動画はかなりわかりやすかったね。古代人にとってなぜ夜空や星、天文学が重要だったのかよくわかった。 そもそも「時間」の概念や「季節」の概念をもっていなかったのだ。それは周期を正確にもっている太陽や月、星によって生まれたものだ。もしこの基準を知らなかったら、いきあたりばったりに時間や季節に遭遇していたことだろう。 古代人は月の満ち欠けによって「ひと月」というくくりを見出し、時間管理の方法を手に入れた。そのうちに星や星座の移動を観測することによって、「季節」の概念も手に入れた。もし「季節」の概念を知らなかったら、とつぜん物が途絶える冬にいきあたりばったりに出会い、貯蔵がないままに放浪や飢餓にさいなまされていただろ

    fuyukky
    fuyukky 2012/11/03
    [November 03, 2012 at 08:56PM] [] 古代人は「時間」も「季節」の概念も知らなかった | 考えるための書評集
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