2012年01月21日19:53 カテゴリ経済 国家資本主義は脅威か 今週のEconomist誌の特集は国家資本主義。ここでも指摘しているが、国家資本主義の元祖はオランダやイギリスなどが17世紀に始めた東インド会社である。アリギもいうように、国家と一体になって植民地から搾取した富によって建設されたのが西洋の資本主義であり、彼らに中国やロシアを批判する資格はない。 新興国で国家資本主義が成功し、先進国の脅威になっていることは事実だが、そのどこまでが国営企業であることによるものかは自明ではない。中国の国有企業が急成長している最大の原因は、中国市場を独占して先進国の技術と低賃金労働を使えることで、民間企業がやればもっと効率が高いという研究もある。 経済学的に考えると、国有化しなくても規制によって私企業をコントロールできるので、国営企業にメリットがあるのは政府の投資に意味がある場合に限られる。通信
The Better Angels of Our Nature: Why Violence Has Declined 作者: Steven Pinker出版社/メーカー: Viking発売日: 2011/10/04メディア: ハードカバー購入: 8人 クリック: 239回この商品を含むブログを見る 第3章 文明化プロセス 暴力減少の事実をたどっていくピンカーの次のテーマは文明化プロセスだ.本章は西洋のテーブルマナーから始まる.西洋のテーブルマナーでは,ナイフの使い方が厳しく制限されており,基本的にフォークで押さえたものを切る以外のことは禁止されている.すると豆のようなものをフォークですくうときに寄せるために使うのもNGになる.何故こんな不自由なことになっているのだろうか.*1それは「文明化プロセス」の結果だというのだ.この章の議論はノルベルト・エリアスの「文明化プロセス」が元になっている.
●みんなが同じ条件、同じルールのもとで競争するのが平等だと言う考えが基本的に間違っていて、みんなが同じ条件で争えば、その条件にもともと最適化していた人が一人勝ちするに決まっている。そこで、同じ土俵に上らないで済むために必要な条件は、大きな流れから切り離されたローカルルールが成立する小さなサークルの「自律的循環」が成立することだろう。ただ、それを、異なる複数のローカルルールが並列的に存在するという風にイメージすると、その外側に、異質なルールたちを並立させるための包括的な空間(全体)が想定されるという「相対主義」となり、その包括空間(グローバル空間)全体を律する統一的メタ・ルールが要請されるということになってしまう。 (例えば「世界文学」という言い方がされるとき、「世界」という言葉で上記のような「様々なローカルルールを包括する空間」がイメージされているように思われる。だから、そのような言い方に
北村紗衣「ニュー・バーレスク研究入門」『シアターアーツ』49号、2011冬、105–115頁。 http://theatrearts.activist.jp/2011/12/vol49.html#more みなさんはニュー・バーレスクを知っていますか?おお、知っていますか。いやそれなら話ははやいです。でもこんなブログにたどり着いてしまうような人生を過ごしてきた人の大半は、「New Burlesque?なにそれBurley(こいつ)が生まれ変わってちょっと変身したの?」的な感想を持つんじゃないかと思います。 そこでこのたび北村紗衣ことさえぼうが書いたこの論考ですよ。え、「いや『ニュー・バーレスク研究入門』って研究以前にまずはニュー・バーレスクがなんなのかを教えてくれ」ですか?大丈夫、ちゃんとニュー・バーレスクっていうのがなんなのかも簡単に書いてあります。 ニューというからにはニューでない単な
1. はじめに 昨日書いたものに対して、著者西村の弟子筋とおぼしき昆虫亀から反論・批判がきている。 西村清和『プラスチックの木はなにが悪いのか』への山形浩生氏の書評 - 昆虫亀 ぼくは「プラスチックの木はプラスチックであるからとにかくダメ」という西村の本の議論に対して、「それは結論ありきの循環論だから無意味、本物と人間には区別できないプラスチックの木ができたらどうするの」と批判した。 それに対して昆虫亀は、美的体験はそのモノの帰属するカテゴリーで左右されるから物理的に区別がつかなくても関係ない、と主張する。 さてぼくは、この反論・批判は、反論にも批判にもなっていないと思う。それどころか、ぼくの当初の論点をさらに強化する例示にしかなっていないと考える。 2. ちがうはさておき「まちがっている」となぜ言えるの? まず一つ。昆虫亀はここで、問題を矮小化している。自然の木とプラスチックの木はカテゴ
「サイバースペースは何故そう呼ばれるか」を河出文庫版で再読。 それから、収録されている論考「精神分析の世紀、情報機械の世紀」「想像界と動物的通路」「スーパーフラットで思弁する」を読んだ。「精神分析の〜」は再読、残り2つは初めて読んだ。対話の章に収録されてるものは既読だったのでパス、また今度読む。あと、特別インタビューと濱野智史による解説を読んだ。 以前読んだときは、結構情報量の多さにいっぱいっぱいになりながら読んだ記憶があったのだが、今回はそうでもなかった。 一応、面白く読むことは出来たのだが(あちこち線引いたりして)、全体的な問題設定とそのための手段の繋がりというのに納得できなくなっていた*1。 ポストモダン論みたいなものへの興味が薄くなっていた。情報量にいっぱいいっぱいにならなかったのも、知識が増えたとかではなくて、そういう部分は少し引いて読んでいたからかもしれない。 近代からポストモ
西谷修『戦争論』の第一章「世界戦争」を再読した。個人的に多くの示唆を得た──しかし、それは、この論考で、あるいはこの一冊の著書全体で著者が読者に向けて意図して描いたであろうことを受け止めたかどうかとは、無関係である。気になった部分をメモしておきたい。 戦争論 (講談社学術文庫) 作者: 西谷修出版社/メーカー: 講談社発売日: 1998/08メディア: 文庫購入: 1人 クリック: 21回この商品を含むブログ (5件) を見る 〈善〉が〈悪〉を生む 〈善〉が〈悪〉を生む。あるいは、〈善〉であるはずのものが避けがたく〈悪〉に転化してしまう。例えば、戦争という人間の企てに対して、その人間はどのように語ることができるのか。戦争に対して、人間はどのような評価を下し、いかなる価値を指し示すことができるのか。戦争の原因をどのように説明し、その責をどのように負うのか──そこで〈善〉〈悪〉をいったいどのよ
迅速な対応に対するさらなる対応。 もとの書評とはいちおう切り離した議論として、すこしばかり意見をさしはさませてもらう。 ああ、最後に、一応もしかしたら万が一、ということで山形氏をフォローしておくと、 山形氏は 「物理的に判別できないものは、美的性質も同じになる」と考えているのかもしれません。 これへの応答は、その「判別できない」をどう捉えるかによって二通りにわかれます。 (1)「カテゴリーが違うけれども、見た目に差がない」という風に捉えるならば、もう上記の議論でその立場は退けられます。この立場にまだ固執するんなら、もうすこししっかりした議論が必要になります。かなり苦しい立場ですが、まぁやりたい人は頑張ってください。。 (2)「カテゴリー的にも判別不可能」というのであれば、美的性質は同じになりえますが、その場合、「それがプラスチックの木<である>かぎり」という西村の限定の外に出る話なので、西
米議会に提出されている著作権侵害防止法案と人気の高いファイルホスティングサイト「Megaupload」の運営者の起訴に憤慨したオンライン活動家たちが、米司法省(DOJ)やUniversal Music、全米映画協会(MPAA)のサイトを一時ダウンさせ、さらに多くのサイトを標的にしている。 TwitterアカウントのAnonDailyには、「Anonymousによるこれまでで最大規模の攻撃。5635人が#LOICを使ってさまざまなサイトをダウンさせたことが確認された」と投稿した。LOICとは、Anonymous支持者が標的のサイトに分散型サービス拒否(DDoS)攻撃を仕掛ける際に用いる「Low Orbit Ion Cannon」ツールのことだ。 Anonymous集団が使用するIRCチャットでは、DOJサイトがダウンしていることや、標的にすべきほかの米政府関連サイトが話し合われており、これら
第5回:書物の中の都市/書物としての都市―ルドゥー、サド、ビュトール 書物について―その形而下学と形而上学 作者: 清水徹出版社/メーカー: 岩波書店発売日: 2001/07/25メディア: 単行本購入: 3人 クリック: 29回この商品を含むブログ (10件) を見る 1)視覚によって感知されるオブジェとしての書物: ポール・ヴァレリー「見られたテクストと、読まれたテクストとは全く別個の二つのものになる*1」 [図版1]ギョーム・アポリネールの「視る詩」『カリグラム』1918年。 [図版2]ロベール・マッサンのタイポグラフィー遊戯、ウジェーヌ・イヨネスコ『禿の女歌手』1950年のグラフィックデザイン。 書物を「造形作品」「空間芸術」とする試み=リーヴル・ダルティスト(livre d’artiste):1960年代に登場。書物の形態を利用し造形芸術作品を作る試み。ビュトールに影響。 [図版
サラサーテの盤―内田百けん集成〈4〉 (ちくま文庫) 作者: 内田百けん出版社/メーカー: 筑摩書房発売日: 2003/01/01メディア: 文庫購入: 4人 クリック: 23回この商品を含むブログ (41件) を見るとある寄稿論文で、博士課程1年目の頃に考えていた「近代日本の文学・図像において、都市が『幻想』『異界』の出来する場となる」というテーマについて取り上げることになりそうなので、まずは内田百�の「東京日記」を再び紐解いてみた。 泉鏡花くらいまでは「深い山」などが異界への通路だけれど、大正期になると都市にぽっかりと「幻」が出現する。その背景には、幻燈や映画など一種の「幻影」を見る体験の一般化、夜の都会を彷徨するという経験の誕生、街燈や夜間列車などどこか非現実的なイメージをもたらすテクノロジーの導入などがあるのではないか、というのが今のところの仮説である。この分野に包括的な知識がある
さっそく再反論が来てました。 http://d.hatena.ne.jp/wlj-Friday/20120121 お忙しい中、わざわざありがとうございます。本当に感謝しております。 この議論で世間の皆様がすこしでも美学に関心をもっていただけているようで、こういうマイナーな学問をやっている者としてはありがたい機会であります。 プラスチックの木でなにが悪いのか: 環境美学入門 作者:西村清和 勁草書房 Amazon でも相変わらず、山形氏は議論の問題設定を誤解されているようなので、ちゃんと書いておきますね。 1.山形氏の誤解 注意して欲しいのは、ここで議論されているのは 「いきなり目の前に人工物だか自然だかよくわからないものが出されたときに、それをわれわれはどのように判別し、どのように見ることができるのか?」という問題ではありません。 本ちゃんと読んだひとはわかると思いますが、 ここで問題にな
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