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2007年11月21日のブックマーク (7件)

  • 坂のある非風景 自由の敵には自由はない

    ■様々な近代国家がテロを民主主義の敵として奉り上げた瞬間に、ぼくたちは18世紀のジャコバン党の問題に再び出会っていた。「自由(を旗印にするわれわれ革命派)の敵(王制)には自由はない」というテーゼ。いつでも敵の大きさがぼくたちの大きさであり、敵の位置がぼくたちの臨界となる。そうして敵の殲滅とは、敵をぼくたちの内部に繰り込むことなのだから、つねに勝利は殲滅された側にこそ分け与えられることになる。敵はもう必要ない。彼らはぼくたち自身となって生き残っているからだ。1789年のブルジョア市民革命後、ジャコバン党(ロベスピエール)は自由と平等を民衆に与え続けるために独裁者となり、人々を次々とギロチンに送り続ける恐怖政治へと上りつめてゆく。このとき彼は、自分たちが闘ってきたもの、殲滅した敵の姿(自由の欠如)へと変貌してしまっていた。 ■何年も前にブームとなった国会議員たちの「年金未払い」に対する糾問は、

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    ggg123 2007/11/21
    殲滅した敵の姿に変貌する自己
  • 坂のある非風景 愛という無によって

    純粋なセックスは、空想への耽溺を支える現実のパートナーを相手にしたマスターベーションである。それに対して、われわれが<現実的な他者>(<他者>の<現実界>)に到達できるのは、あくまで愛によってなのである。 したがって、愛とセックスの対立は、魂と肉体の対立ではなく、ほとんどその逆なのだ、という話を読みながら、コーヒーを飲んでいるところだ。コーヒーを飲みながら読んでいるとしてもいい。そういう夜の秋である。 いぜんとして、どうしてまだ見ぬわが子に向かって「愛している」などと語れるのかといった問いに立ち止まっていて、嘘であるがゆえに主張はさらに精密に強硬になるという事例を思い出せば、そこに愛がないからじゃないかと思い至った。「愛している」という発話は愛の欠如によって生み出されるわけだが、愛がないというより、じつは「愛という無」がそこにはあって、その「無」が語っているのではないかと思った。だから現実

    ggg123
    ggg123 2007/11/21
    そして人に欠如を知らしめるこの「愛という無」が問われるべきだと思う/尊厳とかもそうなのかな。
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    2024夏休み旅行 神戸・2日目【前編】 zfinchyan.hatenablog.com ↑1日目はこちら 6:50 わたしと夫だけ先に起床 前日に買っておいたお芋のパンで朝ごはん 昨日の疲れからか、なかなか息子たちが起きてこなかったので、ゆっくり寝かせてから10:00にホテルの下にあるプレイゾーンに行って、パターゴルフやバス…

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    ggg123
    ggg123 2007/11/21
    コメント欄を全部読みました。対話っていいですよね。
  • 坂のある非風景 殺意としての優しさ

    ぼくもまた、今は亡き「after game over」について触れておきたい。しかし、ただ優しさ、被害者と同一化しようとしたり、「制度でしかない幸福な物語」を挟んで、しかもそれを鏡にして自分を見ているだけのくせに、そのまま対象の幸福だと信じて感涙にむせぶナルシシズムこそが、ぼくらの不幸の源泉なのだということを告げられればそれでいい。感動しました、幸福を祈っていますという充実した、受動性に見せかけた一方的な関与こそが、書き手を抹殺したのである。 エピソードを書くとき、塗り絵に少しずつ色を塗りながら、対象である存在を際立たせていく作業に似ている。だがその作業は、逆に相手の存在を白紙化していくことにつながっている。これは一種の殺意である。 そういう意味では、抹殺された書き手の記事(「書きたくなかったことについての話」など)にあるへの過剰な優しさの描写は、殺意として読まれるべきかもしれない。しか

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    ggg123 2007/11/21
    >対象の否定という殺意が混じっているからこそ「優しさ」には圧倒的な快楽が伴ってしまう。受ける方も授ける方も。
  • 坂のある非風景 進化を準備する痛み

    書くことはピッチングに似ている。(略) 対して読者というのはバッターだろう。蓋し、インターネットには優れたバッターが少ない。まるでバッティングセンターで軽く汗を流すようにぶんぶん振り回しているその朗らかさに時折嫌気がさすことがある。 書き方が無限にあるように読み方も無限にあるのに、読み方を学ぶのはとてもむずかしい。緻密で厳密な解釈学的読解の反対側には飛ばし読みがあるといった一次元上に、すべては美しく配置されてしまって、あとは字面だけ読む(リテラルな読み)か、アレゴリーとして、メタフォリカルに読むか、行間をどの程度深く読むかといった違いしか残っていない。この野球の比喩はよくできていると思う。投手には七色の変化球があっても、バッターには一種類の打ち方しかないということである。あ、バントもあるか。 揉め事は全部この「読み」の浅薄さが作り出しているだけだし、揉め事とは無関係な記事もまた同じ「読み」

    ggg123
    ggg123 2007/11/21
    眼をみること、手を取ることをはるかに凌駕する親密な出会いかもしれないのだ。/それをリアルとする感性に、何がしか美しさを感じてしまうこころは、どんな風に手を握るための境界線を越えていくのだろう?
  • 推奨してるわけでは決してなくて、お嫌な人には拒否する権利があってもいいのかな、ということなんです。 - ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね)

    otsuneさんという方から先日のエントリにコメントをいただきました。(otsuneさん、はじめまして。コメントありがとうございます。)長くなりそうなので、エントリにさせていただきました。コメントをきっかけに、いろいろ考えたので、そのコメントに答えるかたちで書いていきたいと思います。まずはコメントを再録します。 「自分のサイトをcocologからハイパーリンクされないようにする機能があるといいですね」というのもアリなのでしょうか? もしくは「自分のをレビューされないようする機能があるといい」とか。ソーシャルブックマークという他人の領域に書ける事を外部から制限するという発想は独特ですね。(もちろん名誉毀損・脅迫などは法的に駄目なので論外です) まずハイパーリンク制限に関しては、それがウェブの質である限り無理でしょうね。こういう答え方すると、私がリンク制限をしたいみたいに思われる可能性もあ

    推奨してるわけでは決してなくて、お嫌な人には拒否する権利があってもいいのかな、ということなんです。 - ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね)
    ggg123
    ggg123 2007/11/21
    受け入れられるべきと初めからなってるナルななにかは、傷つけられることを非常に嫌うんですよね。でも、もうそろそろそんなわがままを許してあげる棲み分けがあってもいいと。但し等価交換ですよ。と。
  • 技術的に可能かどうかはわかりませんが、もうそろそろ「はてなブックマーク」に、自分のサイトをブックマークされないようにする機能を実装してもいいのかもしれないですね。 - ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね)

    技術的に可能かどうかはわかりませんが、もうそろそろ「はてなブックマーク」に、自分のサイトをブックマークされないようにする機能を実装してもいいのかもしれないですね。 私はココログでブログをやっていて、サブブログとしてメモ帳代わりにはてなダイアリーを使っています。そんな私がはてなの話題をココログで書くのは、なんか生っぽいですが、こちらのブログを少しでも育てたいと思っているからです。なるだけ、公共性があったり、きちんと考えて書くものはこちらで書きたいと思っています。ブロガーなら、この気持ちわかりますよね。それは、私だけではなく、多くのブロガーがそういう感じでブログを書いているので、とりたてて珍しくもないとは思いますが。 なぜはてなのidを取得したのかというと、それは、あるはてなのブログにどうしてもコメントをしたかったからです。はてな村という言葉があるように、ある種、はてなにはコミュニティ感があっ

    技術的に可能かどうかはわかりませんが、もうそろそろ「はてなブックマーク」に、自分のサイトをブックマークされないようにする機能を実装してもいいのかもしれないですね。 - ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね)