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2013年3月11日のブックマーク (6件)

  • finalvent著『考える生き方 』の「はじめに」を公開: 極東ブログ

    先日出した、finalvent著『考える生き方 』の、カバーにもなっている「はじめに」の部分が、ダイヤモンドオンラインのサイトで無料公開になりました。「からっぽな人生を生きてきた |考える生き方 空しさを希望に変えるために」(参照)です。未読の方で、あの奇妙な表紙の先になにが書いてあるのか、ちょっと気になるかな、という人は、ご覧ください。 この「はじめに」ですが、書いた手順としては、初めに書いたものではありませんでした。ちょっとその経緯の裏話でも。 先日、このは、ブロガーだからブログ論とから始まったという話(参照)を書きましたが、他の部分も、現在のような自分語り的スタイルではなく、個別の議論のような体裁で書き進めていました。そしてそれぞれに一例として自分の体験談を混ぜていくというスタイルです。が、どうしても体験談を書き進めていくうちに、「うぁ、これはつらい、書けない、もうだめ」という事

  • 0907 夜 | 松岡正剛の千夜千冊

    アフリカの帰りにノルマンディの海岸町に滞在していた山口昌男は、ミラノ小劇場がパリで久々に公演していると新聞で知ると、すぐにパリに飛んでコンメーディア・デラルテのアルレッキーノを見て、一挙に思索の翼をはばたかせた。『道化の民俗学』(1975)はこの中世以来の道化的で異装的な人格アルレッキーノの解析から始まっている。 古代日の混沌をめぐる意識は、記紀神話よりも風土記のなかにひそむ「草木、言語(ことと)ひし時」といわれた記述に旺盛している。この草木が語った物語のなかの混沌の神々、たとえば麻多智と夜刀神などは、物語のなかで周辺に押しやられていながらも、たいていは別の次元の象徴的秩序を構成する役割も担っている。 山口はこのような例を持ち出して、しだいに「負の価値」というものの発生の仕方に注目していった。いわずとしれた『文化と両義性』(1975)の切り口だ。 神話や説話において、また村落社会や都市文

    0907 夜 | 松岡正剛の千夜千冊
    ggg123
    ggg123 2013/03/11
  • NHK【ETV特集】「人とうまくつきあえない ~いじめや虐待と自閉症スペクトラム~」3/3(日)夜10時、再放送:2013年3/10(日)午前0時50分(土曜深夜)

    2013年3月3日(日) 夜10時 【再放送】2013年3月10日(日)午前0時50分 【再放送】2013年4月13日(土)午後4時 【再放送】2013年6月29日(土) 夜11時 【再放送】2013年7月6日(土)午前0時45分 ※金曜日深夜 【アンコール】人とうまくつきあえない ~いじめ・虐待と自閉症スペクトラム~ いじめや不登校、親からの虐待など、子どもたちの「心」に深刻な傷を負わせてしまう人間関係の問題。こうした解決が難しいと思われてきた問題の背後に、発達障害の一つ「ASD(自閉症スペクトラム障害)」が大きく影響していることが最新の研究から明らかとなってきました。ASD(自閉症スペクトラム障害)は人の気持ちを察したり、自分の気持ちを上手く言葉で表現するのが苦手な障害です。自閉症や広汎性発達障害・アスペルガー症候群など「社会性やコミュニケーション」の障害の総称です。ASDが見過ごされ

  • [書評]就活でうつにならないための本(向後善之): 極東ブログ

    ネットを眺めていると、とくに「はてな」界隈でよく就活の話題をよく見かける。長くデフレが続き、若い人の就職が大変なのだろうなというのはなんとなくわかるし、自分を省みて、就職や職のことも思う。そのあたりは、先日出した自著『考える生き方』(参照)にも書いた。結論だけいえば、就職が自身に馴染むのは30歳くらいのことだろうし、また、何がやりたいかといった夢よりも、落ち着ける職場がよいだろう、というものだった。自分は、どっちかというと、ネガティブな人間なので、そんなことくらいしかわからなったし、職のまつわるつらさに潰れたほうの人間だったので、そのつぶれ状態についても書いてみた。まあ、自著の話はさておくとしよう。 現代の就活というのはどうなっているのだろうか。つらいから、になる人もいそうだ、というあたりで、そのままのコンセプトに思える書『就活でうつにならないための』(参照)を読んでみた。これも結論

  • 『考える生き方』に書かなかったブログ論の一部: 極東ブログ

    今回出版した自著『考える生き方』(参照)は、当初、現在の書籍のコンセプトと少し違って、ブロガーなのでブログ論のような部分から始まっていた。まあ、finalventというのはブロガーだしね、ということでもある。 基テーマは、「ブログを通して自分が市民である意味を考える」ということだった。 この市民というのは、具体的には、私の理解では、普通の人ということである。普通の人がどう市民として生きるのか。 当初はこれを原理論的な枠組みで考えていた。が、途中、「で、それって自分が語りかけたい人に通じるの?」という疑問がわいてきた。ブログとは違うだろう。 こんな堅苦しいブログみたいなことをで書いても、意味ない。 なら、もっと広い層にまで通じるように書きたい。 それと実際のところ、ブロガーとしての自分を普通の人、市民の一例の人生として見たとき、もっと、見やすい構図のほうがいいのではないかと思うように

  • 粘り強くあいまいさに固執すること - finalventの日記

    cakesに連載している書評の、五木寛之『風に吹かれて』の回(参照・後編)で、テーマに近いながらも、あえて扱わなかった話があり、書かなくてもよいのだけど、なんとなく気になるので書いておきたい。 扱わなかったのには理由があった。一つは、版によっては関連の章が掲載されていないことだ。もう一つはメッセージの受け取りが難しいことだ。 風に吹かれて (角川文庫) 五木寛之自選文庫 エッセイシリーズ cakesの連載書評には、「新しい古典」と通しタイトルがあるように、これからの時代で新しい古典として読まれそうな書籍を扱っているが、古典であることの条件の一つは、読み継がれることだ。そして「読み継がれる」というのは多くの場合、いくつか異なる版の存在を意味する。 そこでまず、初版・初出と現在流布している版の比較が重要になる。『風に吹かれて』についても、いくつかの版を検討したところ、ごく基的なレベルで、掲載

    粘り強くあいまいさに固執すること - finalventの日記