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  • 東京糸井重里事務所を退職しました - ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね)

    思い起こせば、このブログを書き始めてから4年と3ヶ月になるんですね。その半分以上の時を、東京糸井重里事務所で働きながら過ごしたことになります。 このブログには書きませんでしたが、2年と少し前のある日、このブログを読んでいただいていたという糸井さんからメールをいただきました。それが入社のきっかけです。私にとって糸井重里さんという広告人は、お手でもあり目標でもありました。つまり、特別な存在なのです。これは、決してお世辞でもなんでもなく、正直な気持ちとしてどうしようもなくあるのです。 もしかすると、リアルタイムで広告クリエイターとしての糸井重里さんがつくる広告を追って来た世代は、私の世代で最後かもしれません。それ以降の世代では、文化人としての糸井さん、ほぼ日の糸井さんという感じだろうと思います。このブログでも、糸井さんのことはたくさん書いてきました。代表的なエントリは、きっと「糸井重里さんの重

    東京糸井重里事務所を退職しました - ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね)
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    ggg123 2012/01/26
    ぼーるどさんらしい。(^^)
  • 「小さな肯定、小さな支持」を積み重ねる時代へ - ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね)

    少し前に「不支持が力を持つ時代」というエントリを書きました。昨年7月の参院選のときに書いたものです。私は、こんなことを言ってました。 代案のない否定。 確かに。代案のない否定が集まっても、とりあえずそれ、やめとこ、ということしか決まりません。それでも時間は流れるので、じゃあどうする、と瀬戸際まで追いつめられて、時間切れというカタチでものごとが決まっていく。その積み重ねの総体が時代というものだとすると、こんな不確実なものはないですよね。 多かれ少なかれ、我々を覆っている時代の気分って、そんな感じかな、とも思ったりします。とりあえず今はやめとこ、という気分が、今の停滞をつくっているのかも。 今回の内閣不信任案の件でも、そんなことを思いました。私はあまり政治に言及するタイプではありませんし、政治に詳しくもありません。けれども、なんとなく今回の件が嫌で嫌でしょうがなかったのは、そんな「不支持が力を

    「小さな肯定、小さな支持」を積み重ねる時代へ - ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね)
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    ggg123 2011/06/27
    少数意見が林立するときには根回しが必要だと思う。根回しがうまくない、または面倒、またはその力がない政治家が大多数なのだと思う。
  • 想像力と寛容、そして公共 - ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね)

    外苑前のLIBROでを買って、交差点で信号待ちをしていたとき、ある方が私に近づいてきました。たくさんの荷物を持ち、黒いスーツを着た落ち着いた上品な感じの女性で、年で言えば50くらい、日人っぽい顔立ちの方だったから安心していたら、 —— HowなんちゃらかんちゃらRoppongi? と聞いてきたのでした。 あっ、英語かあ、と一瞬、たじろいでしまったけど、なんとなく「六木に行くにはどうしたらいい?」みたいなことはわかったので、とりあえずでたらめ英語とボディランゲージで質問に応じる覚悟を決めました。まあ、覚悟ってほどのことではないけど。 東京のこのあたりで仕事している人はわかると思いますが、表参道とか外苑前とか、いわゆる青山界隈は、六木までのアクセスはタクシーが多いんですね。距離がそこそこ近い割には、地下鉄の便が悪いイメージがあって(とはいえ、浅草線から大江戸線で10分くらいなんですけど

    想像力と寛容、そして公共 - ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね)
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    ggg123 2011/04/25
    「私は政府の基準が信じられないから買いだめします。」でもいいんですよね、基本は。
  • ある違和感の正体 - ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね)

    やっぱりね、「原発の是非」の話って違和感があるんですよね、今は。 別にやっちゃいけないっていう話ではないと思います。語るべきじゃない、だなんて僕は絶対に言いません。それは、僕がウェブでものを書く人だからです。僕が黙れと言うことは、僕が黙れと言われることと同じだから。だから、日のウェブが「不謹慎」さがしをしている空気になったとき、僕は、メディアの生態的な観点からの提言しかしなかったんです。「不謹慎」探しやめろ、とは言いませんでした。職業として、大小さまざまなメディアを眺めて来たからある程度はわかる。だから、メディアの生態的な傾向だけを書くことにしたのです。 たとえば、オープンなショートメッセージSNSであるtwitterは、震災直後、マスメディアの情報発信がまだ現実で起っていることに追いつかないときは、その敷居の低さと速報性から一定の役割を果たしたけれど、次第に批評、啓発、啓蒙の場になって

    ある違和感の正体 - ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね)
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    ggg123 2011/04/01
    そのとおりだと思いマウス。
  • 人はたくさんのボールを同時には受けられない - ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね)

    これ、有名な広告づくりの教えなんですが、今の状況にも役立つと思います。キャッチボールってあるじゃないですか。1対1でボールを投げ合う。たのしいですよね。そのとき、突然、横から誰かがボールを投げる。受けられますか。きっと、受けられません。たぶん、プロ野球選手だって受けられないんじゃないでしょうか。 たった2つでも、人間は受けられないんです。 その広告づくりの教えでは、だからたくさんのメッセージをひとつの広告につめこんではいけません、メッセージはひとつにしぼるべきです、と続きます。たくさんのお金を出して出稿する広告です。受け止められないと、お金を溝に捨てるようなものですから。 広告情報ならば、消費者はノイズとして無視、となりますが、震災の情報はちがいます。人の生き死にに関わりますから、無視はできません。できるだけ多くの情報を得たい、とりこぼしたくない。それが、人情というものです。 でも、人間は

    人はたくさんのボールを同時には受けられない - ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね)
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    ggg123 2011/03/22
    今、内部被ばくについて超悩んでるの。
  • 個人がメディアを持てるようになったということ - ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね)

    私がここで書いていることも、個人がメディアを持てるようになったという時代を象徴していると思うし、言葉で伝えたい私にとっては、ブログがその中心的なツールになったし、映像で伝えたい人にとっては、YouTubeやニコニコ動画、USTREAMなのでしょう。 個人がメディアを持てる、ということ自体は、インターネットができたときから実現していることであり、とりたてて今言うべきことではないかもしれないけれど、それでも、今なお言えることは、今も進行しつつあるメディア環境の変化は、やはり、個人がメディアを持てるようになった、という変化を中心にして起きているものである、ということだと思うのです。 ●    ● 広島市の秋葉忠利市長が、テレビでの退任会見ではなく、自らが語る14分50秒の動画をYouTubeに投稿しました。秋葉市長は、マスコミをすべて拒んだわけでなく、4日には地元民放の生放送に出演し、その後に複

    個人がメディアを持てるようになったということ - ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね)
  • 「広告」というのはひとつのテクノロジーなのだと思う - ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね)

    それは、よきにつけ、悪しきにつけ。 当たり前のように広告の仕事をしてきて、それなりに広告の方法論を身につけて、広告という文化圏の中で息をして、広告というものの考え方にどっぷり浸かってきたけれど、その「広告」というやつは、「広告」というやつの外部から見れば、かなり異質なものの考え方のような気がします。 所詮はビジネスではあるから、いろんな組織のごたごたに従うしかないこともありますし、それが現場のリアリズムかもしれませんが、来的には、広告とは、そんなごたごたさえ排除するものの考え方のような気がします。だからといって、つくり手がいちばん尊重されるかというと、組織のごたごたさえ原理的には排除されるのと同様に、つくり手のプライドや自我さえ排除される、そんなものの考え方。ある意味で、きわめて悪魔的な考え方なのかもしれません。 つまり、なによりも尊重されるべきは、広告。そして、広告によってかたちづくら

    「広告」というのはひとつのテクノロジーなのだと思う - ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね)
  • 「あえて狙わないほうがいい」という時代 - ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね)

    消費者が広告を見る目があきらかに変わって来たなあ。 そんなふうに思ったのは、思い返してみると、2000年を少し過ぎてからのような気がします。これまでも、メインストリームではなく、どちらかというと異端的な考え方を好んでしてきたので、それ以前から、なんか新しいやり方は探してはいたけれど、それは、例えば、Saatch & Saatchが提唱していたSMP(Single-minded Propsition)だったり、どちらかというとメッセージ開発の手法的な話が中心だったような気がします。私にとっての90年代は、そんな感じです。 SMP理論は、簡単に言えば、あるブランドがある市場環境に置かれるとき、そのブランドが持つ課題を達成するために必要なのは、つきつめると、たったひとつの短く強いメッセージになるはずだ、という理論で、その成功例としては英国の労働党から保守党へ政権交代を実現した"LABOUR IS

    「あえて狙わないほうがいい」という時代 - ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね)
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    ggg123 2010/07/28
    後から振り返ったときに、結構重要なエントリだったんだな、と読み返すエントリになるんじゃないかなと思っています/ということなのでぶくま
  • 「街」を考える。「街」として考える。 - ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね)

    あじさいがいよいよ満開になってきました。あいかわらずへたくそな写真で失礼。Willcom03のカメラには「接写モード」がありましたので、思い出したように使ってみた次第です。ちなみに、このあじさいは私のものではありません。近所のおうちの駐車場に咲いているものです。わりと見事なあじさいなので、通る人が足を止めて眺めていきます。 ●    ● 考えてみると、街というものは不思議なもので、よく街並と言いますが、街並を構成するひとつひとつは、誰かの家だったりビルだっりして、その「誰かのもの」が集まって、互いにゆるやかに関係することで、ひとつの「街」という像をつくっているんですよね。 きっと、この「誰かのもの」が大事なんだと思います。「街」というものの、活気だったり、安らぎだったり、そんなこんなの「街」的ななんだかんだは、この「誰かのもの」が集まることでできている。そんな気がします。 逆に言えば、ぜん

    「街」を考える。「街」として考える。 - ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね)
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    ggg123 2010/06/21
    満開のあじさいを見ながら、なんとなく、ああ、こういうことなんだよなあ、と思いました/広告の話はいつも難しいんだけどこれはわかるような気がした。
  • 交差点的 - ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね)

    繁華街の交差点で信号が青になるのを待っている。まわりには様々な人。サラリーマン、学生、おっちゃん、おばちゃん、おじいさん、おばあさん。おしゃべりしている人もいれば、黙っている人もいる。家電量販店の店員さんがメガホンでセールを広告している。ティッシュを配っている人もいる。 私は、天下一品で昼飯をった後。胃に血液が集まって、ぼんやりとした頭の中で、ラーメンについて考える。 「それにしても、最近のラーメンってのは、変わり種ばっかりだよなあ。でも、普通のラーメンでは、今やビジネス的に成り立たないのかもなあ。差別化って何だろ。」 隣にいるサラリーマンの人は黙っている。でも、きっと彼も何かを考えているのだろう。彼から見ると、私もまた、黙っているただの人にすぎない。 「でもまあ、天下一品って、月に1回はべたくなるよなあ。」 そんなくだらないことをぼんやりと考える。隣のサラリーマンが、こっちを向く。少

    交差点的 - ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね)
  • せっかくだからインタラクティブに - ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね)

    今週の金曜日に、駒澤大学グローバル・メディア・スタディーズ(GMS)学部の講師である高先生のお誘いで、講義を行うことになりました。とはいいつつ、私は研究者でもありませんし、学生さんたちのためになる話ができるかはわかりませんが、一生懸命話しますので、講義に出席される駒沢大学の学生のみなさん、どうぞよろしくです。 さてどんなお話をすれば学生さんにためになるかな、と考えながら、パワーポイントでコツコツとスライドをつくっているのですが、大切なことをひとつ忘れていました。そう。私はブロガーでもあるんですよね。というか、そもそも講義のお誘いをいただいたのもこのブログを通してでした。 だったらこのブログを講義に使ってしまおう、ということで、質問を募集します。 過去のブログエントリに書いていたあの部分、いったいあれはどういう意味、とか、あの部分は私は違うと思います、などなど、もし学生さんがこのブログを見て

    せっかくだからインタラクティブに - ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね)
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    ggg123 2009/11/27
    ややっ!これからは先生とお呼びしなければ・・(^0^)できれば後日どんなお話だったか教えてください
  • むちゃくちゃな音 - ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね)

    自分で楽器をやっている人なら、JOJOさんのこの言葉が痛いほどわかると思うんですよね。私も楽器をやっていたことがあるから、ほんといやになるくらいわかります。ああ、ぼくには無理です、みたいなわかり方なのが、しょんぼりなんですけどね。 もう一度言うが、チューニングしないと、むちゃくちゃな音は出ないのだ。 音楽から遠ざかろうとすると音楽的になってしまうので、むしろ音楽のコアに近づくことによって非音楽的になろうとするのである。 JOJO広重 BLOG:ノイズギターのこと ジャズなんかでも、形式から自由になりたいと頭で思っていても、それだけではなかなか自由にはなれなくて、自由に弾けなんて言われると、どうしようもなくある種の凡庸なパターンの繰り返しに陥ってしまって、メソッドにがんじがらめになって弾いているときよりもつまらない演奏になってしまうんですよね。フリージャズとかはまさに非音楽の運動だと思うし、

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    ggg123 2009/11/20
    なんかわかる。
  • 人間の感覚は逆説的に働くのかもしれない - ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね)

    学生の頃、ほんの少しだけ音楽をかじっていただけなので、そのあたりの曖昧さは許していただきたいとは思うのだけれど、和音について、少し思うところを書いてみたいと思います。音楽にあまり詳しくない方でもわかるように書いていますので、しばしおつきあいを。 ●    ● 12の音階を持つ西洋音楽の考え方ですが、和音は、1度、3度、5度の組み合わせである三和音(3つの音が重なる和音)が基ですよね。この三和音は、4つしかありません。長三和音、短三和音、減三和音、増三和音。この4つ。ギターをやっている人は、コードネームで書く方がわかりやすいですよね。Cをルート音として書くと、C、Cm、Cdim、Caug。メジャー、マイナー、ディミニッシュ、オーギュメント。この4つです。それ以外の組み合わせでは、和音にはなりません。 そこにルート音から7度の音を合わせたのが四和音。C7とか、Cm7とか、Cmaj7とか。厳密

    人間の感覚は逆説的に働くのかもしれない - ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね)
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    ggg123 2009/10/29
    それは、人の心なんかでも、きっと同じなのかもしれないなあ
  • 消えたのではなく、溶けた。 - ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね)

    一昨日、親しくさせていただいているあるカメラマンの方とゆっくり話す機会がありました。 私はその方の写真が単純に好きです。ブログを参照してもらえればわかると思うんですが、なんかまっすぐなんですね。こういう写真を見ていると、なんとなくね、批評の言葉というのが下品に思えてくるんです。こうだからいい、とか、ああだから悪い、とかではなく、ただ、ええなあ、と。そんな感じ。 以前、ご一緒させていただいた広告の仕事。長野県の上田市のロケ。 細い路地をロケハンしていたとき、突然、その方は立ち止まり、すっと息を吸い込んで、肩幅に足を開き、カメラを背筋を伸ばした目の位置に持っていって、息を止め、シャッターを押しました。私は、背後からその姿を見ていたんですが、一瞬、その方の存在が消えてしまったような気がしたんですよね。1秒もないくらいの、ほんの一瞬ですが。 うまく言葉にはできないけれど、その方の写真を見て、ええな

    消えたのではなく、溶けた。 - ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね)
  • 10年早いわ!と言うヤツはしばきたおせ - ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね)

    ただし、心の中でね。 ほんとにしばくと警察くるからね。 10年早いなんて、誰が決めた。 10年待ったら、時代が変わってしまうがな。 やればいい。やればええねん。 なんやその顔、自信がないんか。 まあ今はしゃあない。 でも今まで君がやってきたことは、 逃げたり消えたりしないから、心配すな。 おっさんはこう見えても、 いろんなヤツに10年早いと言われながら しれっと何でもやってきたんよ。 それで嫌われたり干されたりもしたけど、 やってよかったと思ってるよ。 少々やせ我慢も入っとるけどな。 10年早いわ! そんなこと言うヤツはしばきたおせ。 心の中で。 えっ、その台詞、 先輩もよく言うじゃないですか、って。 あのな、よく聞け、若者よ。 おっさんがいつも言ってる台詞は、こう。 100年早いわ! やって死ぬのと、 やらずに死ぬのとどっちがいい? な。やればいい。 おっさんの言うことなんか無視して 思

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    ggg123
    ggg123 2009/08/14
    愚痴ってしまいました。カテゴリにはコメント欄がないのね。
  • 自分で書いておいてなんですが - ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね)

    前回のエントリ「おこり方がわからない」のテーマについて、なおまだひっかかり続けています。結構難問のような気がするし、これを追求していくと、文学の世界のような気もするし、結局は明快な解はないような気もします。 立て続けに2つのテレビドラマを見ました。ひとつはフジテレビ『任侠ヘルパー』。草彅剛さん主演で、ヤクザの大親分から跡継ぎを選考するために舎弟の組長たちを老人ホームに送り込み、ヘルパーとして働かせるという話。そこで草彅さん演じるヤクザヘルパーさんは、最初はやさグレのチンピラで、些細なことに怒りをぶつけている。老人から金をくすめるし、ヘルパーの仕事はサボる。でも、介護の現実に触れていくうちに、その怒りは、現在の介護ビジネスのあり方、当の介護とは何かといったもっと大きなものにぶつけられていく。そこが、このドラマの最大の面白さ。 もうひとつのドラマは、NHK名古屋制作の土曜ドラマ『リミット〜刑

    自分で書いておいてなんですが - ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね)
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    ggg123 2009/07/27
  • おこり方がわからない - ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね)

    いがらしみきおさんの「ぼのぼの」という漫画に、こんな話があります。最初のコマが、困っているぼのぼの君、その次のコマがおこっているぼのぼの君。ほとんど違わないんですね。よくよく見ると、肩がちょっとすぼんでいるのですが、みんなにはわからない、そんな話。「ぼのぼの」2巻に入っています。 この話の扉には、ポエムのような言葉が添えられています。 ボクはおこるのがヘタだ ボクはおこるのがヘタだ おこるっていうのは みんなに『自分のモノ』を 教えたがることだって スナドリネコさんが 言ってたけど ボクは『自分のモノ』って なんなのかわからないから ボクはおこるのがヘタなんだと思う ヘタなんだと思うったら 私は、ぼのぼの君ほどピュアでもないし、歳をとることで汚れちゃったなあ、みたいな部分もたくさん持っている大人ですけど、それでも、なんとなくぼのぼの君の気持ちはわかります。おこり方がよくわからないし、おこり

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    ggg123 2009/07/27
  • TCCのこと - ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね)

    この話は一生書かないでおこうかな、と思っていたけど、そろそろいいかなと思う部分もあり、今ならルサンチマン風味を加えずに書ける気もするので書くことにします。TCC、つまり東京コピーライターズクラブのこと。 私は、TCCの会員ではありません。TCCに入会するには、年に1回行われるコピー年鑑作品募集の新人部門に応募し、新人賞を受賞しなくちゃいけなくて、私がTCC会員ではないということは、つまり、新人賞をもらっていないということ。 私の世代のコピーライターにとっては、TCC新人賞はコピーライターの登竜門的なところがあって、私も例に漏れず、TCC新人賞は大きな目標でした。確か、計8回ほど応募したはずですが、ノミネートが3回で、ついに縁がありませんでした。ちなみに、募集要項は、単独コピーライター作品(つまり複数のコピーライターがかかわっている仕事は除外)で、印刷だと5点必要。年に十数人が受賞します。

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  • たまには広告の仕事のうれしさについて語ってみてもいいですか - ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね)

    なんか巷では100年に一度の不況とか呼ばれてて、そんなとき真っ先にカットされるのが、交通費、交際費、広告費だなんて言われてて、それよりもなによりも、「いまどきテレビCMとか新聞広告ってさあ、時代の変化についていけてないよね。終わってるよね、広告」とかブログで語られたりしたときには、そのひとつである広告を仕事にしている私なんかは、「そないに言うなや、あんまり言うなや、そなこと前から知ってるわ(by Rikuoさん)」という気分になります。 とは言いつつも、時代が変わっているのは事実だし、その事実から目を背けることはできないわけで、そんなこんなであれこれ広告について、このブログに書きつづってきたわけです。そんなわけなんで、いつもの広告論的なエントリは、この時代にどうしていったらいいでしょ的な憂いがにじんでいて、ま、それも魅力のひとつではあるのでしょうが、今夜は、広告の仕事をするよろこびについて

    たまには広告の仕事のうれしさについて語ってみてもいいですか - ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね)
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    ggg123 2009/06/10
    やれば出来る子。
  • 1967年生まれの僕が、1949年生まれの鹿島茂さんが書いた『吉本隆明1968』を読んでみて思ったこと(2) - ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね)

    1967年生まれの僕が、1949年生まれの鹿島茂さんが書いた『吉隆明1968』を読んでみて思ったこと(2) 吉隆明という思想家は、独特の問題意識を持っているように思います。私の思い込みかもしれませんが、思想家というものは、原理を追求し、倫理を問うてくるものだと思います。もちろん、ここでいう思想家とは、著作が多くの人に読まれ、語りつくされるような思想家ですが、例えば、僕のような一般の人が書くブログにしても同じです。 僕は広告屋で、広告の過去、現在、未来を僕なりに語っています。それはひとつの党派性であり、「僕」という独立した個の中での原理でもあります。そして、その言説は、当然のように倫理を問うてくるものです。問うてくると言っても、その影響力の問題がフィルターとしてあるのですが、そのフィルターを捨象したうえで純化して言えば、僕のブログを読んだ人は、共感か拒絶か、という態度表明を少なからず強い

    1967年生まれの僕が、1949年生まれの鹿島茂さんが書いた『吉本隆明1968』を読んでみて思ったこと(2) - ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね)