4月28日から一ヶ月半、相方のノエちゃんとキューバへいってきた。メキシコからソ連製らしきオンボロの飛行機でキューバへ飛んだ。飛行中、機内にドライアイスのような煙が大量発生していた。1時間ぐらいでキューバに着いた。空港の外へ出ると、でかい看板にブッシュの顔写真と「ブッシュはテロリストだ!」みたいなでかい看板があった。そこへ通りすがりのかわいい女子中学生たちが、持っていた縄跳びでブッシュの顔を殴りつけていた。おおおおおおっと思わず勃起した。 キューバ政府は、ヒッチハイクを推奨しているらしいので、路上に立ってヒッチハイクをしてみた。が、まったく停まってくれなかった。だからバスに乗った。バスはかなり安かった。バスからキューバの街並みを眺めていると、多国籍企業の広告がひとつもなかった。あるのは政治的スローガンやゲバラの肖像ばかりだった。 私はほとんどキューバに関心がなかったので、少しだけ歴史を調べて
www.antipsychiatry.org - in Japanese (last modified July 25, 2002 - see What's New) Español Francais Deutsch Polski Български Italiano Portugu黌 Nederlands English Russian The Antipsychiatry Coalition (反精神医学連合) The Antipsychiatry Coalition is a nonprofit volunteer group consisting of people who feel we have been harmed by psychiatry - and of our supporters. We created this website t
すべてはイミョンバクのせいか? ろうそくは消えた。ずっと昔に。もはやそれを否定できる人はいないと思える。「鶏バスツアー」や「昭博山城」などのユーモアを作り出したその熱気は消え、その場に残ったのは、恐ろしい車が疾走する冷たいアスファルトだけだ。街は再び日常へ席を譲り、人々はすべて自分の居場所へと戻った。この事件の終結に対するいろんな後日談が、1周年を迎えようとする頃に雲ができるように浮かび上がるのを目撃するのも当たり前だ。それだけろうそくは、結果はどうであれ、もう一度振り返ってみるべき意味を刻んでおいたといえる。 ろうそくと関連してさまざまな意見が出ており、その意義を新しくしようとする試みがあったが、ほとんどがろうそくを「失敗」だと見る立場が大勢を埋めるようだ。もちろん、ろうそくは戻ってくるという「予言」もなくはないが、このような言葉は「約束」というより「期待」に近いものだ。約束する者のいな
大型スーパーの棚から食料品を集め、国民の「困窮」を訴える若者グループ=パリ郊外パンタン、飯竹写す 【パリ=飯竹恒一】大型スーパーで棚から食料品を勝手にかき集め、持参したテーブルに載せて買い物客らに振る舞う――。こんな過激な方法で経済危機による国民の「困窮」を訴える運動を、フランスの若者たちのグループが続けている。 先月31日はパリ郊外パンタンのスーパーで「不況のツケを国民に払わせるな」「生活必需品への税金をなくせ」などと訴え、野菜やチーズ、パン、お菓子を代金を払わないままほおばり、買い物客らにジュースを勧めた。 これで5回目だが、毎回メディアが取材し、注目を浴びている。店側から抗議はあるものの代金は請求されず、警察ざたにもなっていないという。「取り組みが支持されているから」とメンバー。総菜売り場に勤務する女性も「私も支持する」と笑顔で見守っていた。
海外では、数万人から場合によっては数十万人が参加する政治的なデモや大衆行動、そして暴動が結構あります。しかし日本では、1000人が集まるデモさえ、そんなに多くはありません。 まず私は、「なぜ日本の(左派の)社会運動は、こんなにも弱いのだろうか」という問題意識から、この文章を書いています。言い換えると、なぜ日本の社会運動は社会的な信用を獲得できていないのか、ということです。 もちろんそれには様々な理由があるでしょうが、私がここで考えたいのは、「社会運動と権力」の問題です。それは、社会運動内部における多様性や、運動内部の多数派/少数派の関係のあり方の問題であり、社会運動がその外部に対して持っている影響力に対して責任を引き受ける必要性のことです。こういった問題を考えて取り組んでこなかったことが、日本の社会運動の社会的信用の低さにつながっていると私は思うからです。
IT業を生業にして、ネットにどっぷり浸かっている自分のような人間でも、物理的な土地に縛られている事実は否定のしようがない。 地域によって生活習慣も違えば、言葉も違えば、宗教も違えば、思想も違う。 これは物理的に人間が隔離されているからにほかならない。地域地域の気候風土的な事情を無視して画一的な文化になることは決してない。もしもそういう日が来るのだとすれば、それは人類が地理的な束縛から解き放たれる時代になってからだろう。 つまるところ、攻殻機動隊の世界のような電脳化時代が訪れ、今よりもずっとずっと人生における生活環境の占める重みがなくなった時代がくれば、生活圏がゆえの地域言語を話す必要はなくなるし、地域ゆえの文化に染まる必要もなくなる。 共通言語としての第一歩:ピジン化 現在はデファクトスタンダードで英語が共通語になっちゃってるわけだけど、共通語となる言語の運命として、まずはピジン化が進む。
風邪治ったよ。兵糧攻めで死にそうになった次の日にちょっと頑張って食料品を買いに行ったら、まぁ久々に外に出たっつーのもあってなんだか気分が晴れやかになってっつーかやっぱ外はいいね。あとやっぱり「外はいいね」って俺みたいな筋金入りの引きこもりが言えるような環境がこっちにはあると思う。日本みたいに異常に視線におびえたりする必要も無いし、「普通の人なら会社や学校にいる時間のはずなのに今こうやって街を歩いてるなんて変に見られないだろうか?」なんてことを心配する必要も無い。で、極めつけはズリネタ。大量の食料と数冊の本をイーストヴィレッジで買ってきて、んで久々に外出たからごちそうだってことでサブウェイのサンドイッチを食べたんだけど、まぁ別にサブウェイはイーストヴィレッジじゃなくてフォレストヒルズの駅前なんだけどね。で、帰るときにね、ちょうど俺が外を出ようとしたら二人組のブロンドのセクシーな姉ちゃんが入っ
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く