児童ポルノとフェミニズム(CGSニューズレター) - C plus Mで書いたことと矛盾するように一見読めるかもしれないけれど(実際にボクは矛盾してないと思うけれど) chima オンニのとこで紹介されてるこの記事の内容について、ボクは相当イライラしている。最初の2段落だけ抜粋する(こういう記事って消えるんだよね?いつか)少女を含む女性3人をレイプして妊娠や中絶をさせるという内容の日本製のパソコンゲームソフトに海外で批判が高まっている。 日本での販売中止を求める抗議活動を国際人権団体が始めた。このゲームは2月に英国の国会で問題になり、ビデオ・書籍のネット販売大手「アマゾン」が扱いを中止した。しかし、児童ポルノなどの規制が緩い日本では今でも流通している。もう最悪。大っ嫌い。このゲームだけが唯一ムカつくわけじゃなくて、きっと探したらウジャウジャ出てくるのだろうけれど。別に「少女」だからムカつく
This webpage was generated by the domain owner using Sedo Domain Parking. Disclaimer: Sedo maintains no relationship with third party advertisers. Reference to any specific service or trade mark is not controlled by Sedo nor does it constitute or imply its association, endorsement or recommendation.
※注記:本ページは、入稿時のものをもとにした暫定版であり、校正段階での修正が反映されていません。 現代社会理論研究 第8号 65〜80頁 1998年11月 反精神医学と家族、あるいは人間へのまなざし 周藤真也 1. 反精神医学と人間へのまなざし――序論 「反精神医学」は、1960〜70年代にかけて精神医学内部から湧き起こった精神医学的常識に対する反撥、挑戦という政治性を伴った潮流の総称である(1)。この動きは、医療批判、精神医療批判の動きと呼応して大きな注目を集め大きな影響を与えた。精神医療において、反精神医学は、「人間」を中心に据えた精神医学、精神医療への転換、すなわち精神医療の改革を促進させる大きな要因となる。反精神医学の主張は、精神医療の「人間化」と呼ばれる倫理性への志向と大きく重なり合ったのである。 この反精神医学の震源地がレイン(Laing, R. D.)、クーパー(Coope
www.antipsychiatry.org - in Japanese (last modified July 25, 2002 - see What's New) Español Francais Deutsch Polski Български Italiano Portugu黌 Nederlands English Russian The Antipsychiatry Coalition (反精神医学連合) The Antipsychiatry Coalition is a nonprofit volunteer group consisting of people who feel we have been harmed by psychiatry - and of our supporters. We created this website t
この副題から想像することは、貧しさの極限の中で、重い病を患い命の危険があった一市民が、心優しきCWの献身的な支援で一命を取りとめようとしているような美談の話かと思うかもしれません。 が、全然そういう話ではなく、福祉行政の狭間ともいうべき処遇困難者を巡る福祉事務所の職員の苦悩と葛藤ともいうべきものについて述べてみたいと思います。 話の発端は1年前に遡る、「てのはし」の夜回りでの出来事でした。 「てのはし」の福祉班のBさんが、駅の構内でホームレス状態の80歳に近いお婆さんを見つけ、翌日、C区の福祉事務所にお連れして保護を受けました。 お婆さんは障害があると思われる高齢者で、受け入れてくれる適当な施設も見つからず、とりあえず、東京近郊にある精神病院に入院することになりました。 それから1年が経過した、つい先日、福祉事務所の担当のCWからBさんに電話があり、お婆さんのことで相談をしたいとのことでし
福祉の窓 (法律家に弱い福祉事務所) 私たちは、車を運転している時に、パトカーが近づいてくると、一瞬、ドキッとしますよね。 別に何も違反していなければ、怖がる必要がないのですが、日頃、交通規則を100%守って運転しているとは思っていないので、ついつい警戒感が出てしまいます。 これと同じ図式が福祉事務所と法律家の間に見られます。 どいうことかと言いますと、弁護士などが、保護を受けたい人に頼まれて、福祉事務所に同行することが最近はよくあります。 弁護士の名刺をみて、受付の人は内心ドキッとするというより、反射的に、嫌な気持ちが起きるそうです。要するに「面倒だな」という感じでしょうか。 私たちのような支援者に対してさえも、保護を受けたい人に同行して相談室に入ると、担当のCWによっては横にいる支援者を徹底的に無視したり、目を合わせないようにします。 この手のCWに共通していることは、CWとしての福祉
メキシコのサンサルバドル・アテンコ(San Salvador Atenco)の街でマチェーテ(山刀)を手に警備に立つメキシコ人の農民。(2002年7月14日撮影、本文とは関係ありません)。(c)AFP/Omar TORRES 【5月10日 AFP】新型インフルエンザをものともせず、刃渡り40センチのマチェーテ(山刀)を持った19世紀の「歌うカウボーイ」さながらの衣装を身につけたメキシコ人の男が、金品を奪った上に被害者に無理やり自分の歌を聴かせていた――メキシコの警察がこんな風変わりな強盗を逮捕したことを明らかにした。 逮捕されたのは、メキシコ人のビセンテ・フェルナンデス(Vicente Fernandez)容疑者。有名なメキシコのカントリーミュージック歌手と同名だ。 同容疑者は「歌うカウボーイ」の格好をして人を脅して所持品を奪い取った容疑が持たれているが、その犯罪行為にはさらに「おまけ」が
書籍否定は納得できるのだが否定論にはそれなりの内容を書くべきでは? 例えば病名に意味はないとか具体的にほしいですね。薬売りと言われないような内容のが。 「発達障害は統合失調症の免罪符ではない」のコメント欄で、「もんちゃん」という読者の方から上のような質問を頂いている。今日のエントリはそのアンサーである。 過去ログでも時々出てくる、軽微な脳障害、つまり軽度の器質性障害は実際に画像で見えるわけではない。しかしその精神所見の普遍性から、見えなくても「そういうものが推定できる」といった文脈で過去ログでは書いている。この器質性の引き起こす精神症状で特徴的なものの1つは、 なにげなく自分に言われたことを悪意に受け取る。 ということであろう。これは100%あるわけではないが、仔細に精神症状を観察しているとそういう精神所見がみられるのがわかる。これはある種の認知の障害ではある。 ものの見方が性悪説的で、人
— あるいはマイノリティーの運動における共同幻想の論理 — 豊田 正弘 はじめに 本稿の主要な目的は、本質的に社会全体で取り組まれなければならない問題、あるいは社会の歪みから派生している問題など、元来社会がその責務を負うべき様々な社会問題が、社会全体の問題とされることなく、狭義の当事者性に封じ込められていることの現状と問題点とを明らかにすることである。 問題の本質の社会性にも関わらず、マイノリティと称される社会的少数者の問題の多くが同様の現状にあり、この現状は深化することによって問題の本質を拡散させる傾向にある。例えばそれは障害者、在日韓国・朝鮮人、あるいは外国人、女性、被差別部落などの問題である。これらの問題はいずれも社会的なそれであるにも関わらず、一方では当事者の問題と言われる。あるいは自衛隊演習場・在日米軍基地・原子力発電所・ダム・ごみ処分地などの様々な施設、道路・空港・港湾施設など
(5月17日追記) 75カ国300団体がアピールに署名したそうです! 個人ではパリ市長ベルトラン・デラノエ市長や哲学者ジュディス・バトラーなど、すごい顔ぶれが揃っています。署名人・団体の一覧はこの↑リンクから。 国際反ホモフォビアの日 IDAHO = International Day Against Homophobia (5月17日) 日本のイベント・サイト やっぱ愛ダホ!Idaho-net 札幌、仙台、千葉、新宿、浜松、名古屋、大阪、甲子園、福岡の9都市で街頭アクションが行われるそうです。 「多様な性にYes!の一言メッセージ」募集 5月14日までだそうです。 1990年5月17日、WHOの「国際疾病分類(ICD)」から同性愛に関する項目が消え、「いかなる性的指向も障害とは看做されず、治療の対象にはならない」ことが明らかにされました(この経緯については、不完全ですが去年の5月17日の
ヤマト人は にげる。「民族は つくられた概念で、実体は ない」と相対化する。おきなわ人に「ヤマト人」と よばれても、アイヌ人に「和人」と よばれても、そんな実感はないし、民族意識など もっていないと いえてしまう。 国家において、「民族」を 意識させられるのは、いつもマイノリティである。差別制度が、日常的な差別が、マイノリティに「民族」を 意識させるのだ。 それを 指摘し、多数派日本人に「ヤマト人」や「和人」という名前を つけてみても、「名前のない多数派」は にげてしまう。「民族意識など、幻想にすぎず、そして わたしは「ナショナリズムに反対する」」のだと。そんな態度が良心的だと、なぜ おもえてしまうのか。 多数派は、名前を つける側である。そして、多数派は名前を もたない。多数派は、名前を つけられるのを いやがる。自分たちは、だれかにたいして、くりかえし やっていることなのにだ。 民族は
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く