聚楽第の落書き事件とは 戦国時代の1589年、何者かが夜陰に乗じて、聚楽第南外門にの白壁に落書きしたのが発見された事件。(落首事件) 落書きの内容は関白(豊臣秀吉)の政治を批判するものであったという。 一説には下記のような文章で落書きされていたと言う。 大仏の くどくもあれや やりかたな くぎかすがいは 子たからめぐむ」 との記述であるが、上記文章は後世の創作である可能性があり、実際にどのような落書きがされたのかは記録が無い。 いずれにせよ、当時、豊臣秀吉は方広寺の大仏を建立する名目で刀狩令を出して批判されており、このようにして京都東山に大仏殿を建築しようとしていた事や、側室を多数持ちながら長年、子供に恵まれて来なかったのに、突然、茶々(淀殿)が懐妊した事から、あざ笑うかのような内容であったとされる。 誹謗中傷が落書きされたのに対して、豊臣秀吉はまず警備を担当していた番人に怒りをぶつけた